
見上げれば、散り始めの桜の彼方に
十六夜(いざよい)の月が。
いや、レモンのように欠けているようにも見えるから、あるいは十七夜の立待月だったかも知れない。
十六夜はわづかに闇の初め哉
芭蕉
[満月を過ぎた十六夜。わずかながらにでも月は暗闇に向かって欠け始める最初の夜だ。]
いずれにしても50歳を過ぎた男には、なかなか味わい深い句だと思っている。
そう、盛りを過ぎて、少しずつ死というものに親しみをおぼえていくお年頃。
先日は西行の詠った満月に桜というのを紹介したので、と言うわけでもないのだけれどね。
もう忘れちゃってたりしてない?
そう、この歌ね。
願わくは
花のもとにて春死なむ
その 如月の望月のころ
西行
十六夜に話しを戻そう。
十六夜は「いざよい」古くは「いさよい」と読まれる。
なんでよ?
もともと「いざよい」とは「ためらうこと」「ためらっている状態」を指す言葉なんだそうで、十六夜の月は「欠け始めたのか、まだ欠けていないのか」判断を“ためらう”ような月であることから「いざよいの月」と読まれるようになったんだと。
「昨日よりもっと満ちた月を待っていると、昨日よりやや遅く“ためらう”ように少し欠けた月が出てくるから」との説もあるんだそうだけど、どちらの説もなかなか味わい深い。
暦雑学の補足ってとこの解説がなかなかわかりやすくてお気に入りなのだ。

9日の夕方撮った写真なんだけど、散り始めと欠け始めの切なさが重なるのを見て、過ぎゆく春の宵を密かに惜しんだのだった。
いや、この日は、ハードスケジュールでしたよ。
おかげで、昨日今日とぐったりしてます。
だんだん無理が利かなくなるねぇ。