
僕がまだほんの子どもの頃、こんなタイトルのTV番組があった。
「パパは何でも知っている」
アメリカのちょっとリッチな家族のドラマなんだけど、子供心にも素敵なタイトルだと思ってたっけ。
「パパは何でも知っている」
なんて誇らしい言葉。
子どもの頃、父親というのは、確かにそんな存在だった。
太陽は、実際には燃えているのではないとか、台風のあと決まって晴れるのは強い低気圧のまわりが相対的に高気圧になりやすいからだとか、聞けばたいていのことは答えてくれた。
もちろん、そんな父にも答えられないことはあった。
例えば、良く晴れた日の三日月。
反対側の輪郭が光ってるのは、月の高い山脈が太陽の光で光ってるんだとか教えてくれる。
月の山脈が最後の夕日を浴びて輝いてるのが、地球からでも見えているんだと。
あぁ、なんて果てしない物語。
でも、その金色の点線の内側が、どうして明るい水色に光っているのかまでは答えてくれなかった。
父でさえも知らないことが、この世の中にはあると言うこと。
父でさえ、絶対の存在ではいられなくて、計り知れない多様な現象が常に身近に存在していると言うこと。
大人になってから、それも比較的最近になってから、偶然その水色の月の正体を知った。
何と、地球からの反射光が月の影の部分を照らしていて、あの透明な浅葱色の輝きをもう一度地球に返してくれているのだと。
何を今さらと思う人も多いかも知れない。
物を知らない僕は、おかげでいまだに退屈する暇がない。

そんなわけで、今でも世界の隅々に、計り知れない不思議が充ち満ちているのを感じ取ることが出来る。
話しを戻そう。
TVドラマの「パパは何でも知っている」で、一つだけ今でも記憶に残っている話しがある。

そのドラマの一家が、クリスマスの休暇で山の別荘に遊びに行ったのは良いけれど、ドカ雪のせいで街に戻れなくなり、そのまま別荘でクリスマスを迎えることになってしまった。
街の暮らしでの、華やかなパーティーは、すべてキャンセル。
はじめはみんな落胆するが、ママが子どもの頃のクリスマスを思い出して、懐かしいクリスマスツリーを作ってみんなで祝おうと言い出す。

小枝や木の実で、ドアを飾り。

モミの木には砂糖菓子や小さなリンゴや麦わらで作った星をぶら下げて、クリスマスツリーを飾った。
それは、喧噪にまみれた都会のともすると豪奢に過ぎるクリスマスツリーとは違った、静かな美しさに包まれていた。

そして、子ども達はパパとママの子どもの頃の話しを神話の1ページかのように聞き入って、一家は友人や親戚への応対に追われない、静かな雪のクリスマスをじっくりと味わうのだった。
と、まぁ、そんな話しだったと思う。
今でも、クリスマスの飾りを作る時、その番組のことを思い出す。
クリスマスイブよ、静かな夜であれよかし。