「東のエデン 劇場版 II Paradise Lost/神山健治;2010年劇場公開作品」
アニメーション
前作でニューヨーク編が終わり、完結編となる本編では再び日本が舞台になる。今回でようやくゲームの勝者が決まるわけだが、この展開はちょっとズルイ、というか、緩い。こんな結末では序盤に死んでいったセレソンたちが浮かばれないだろう^^;
以下ネタバレあり、まだ観てない人は読まないように
二度目のミサイル事件後、ふたたび姿を消していた滝沢朗(木村良平)はまたも記憶を消し、亡き総理の隠し子、飯沼朗として再登場していた。なぜそんなことが可能かといえば、ネット上のみならず、ネットに接続されたすべてのパソコン内の朗に関する情報が、何者かによって書き換えられ、すべての経歴が飯沼朗のものに入れ替わっていたからである。おそらくジュイス(それぞれのセレソン専用の人工知能)が「東のエデン」システムに侵入してデータを改ざんしたものと思われる。パンツこと板津(檜山修之)をはじめとする関係者はその対策で大わらわになっていたところ、一連のテロの容疑者として公安が「東のエデン」関係者をマークし始める。そんな矢先、今度は突然降って湧いたように朗の母親探しというイベントが発生し、ヒロイン咲(早見沙織)はそちらに駆り出されることになる。その結果、彼の母親らしき人物は、若き日の飯沼総理がニューヨーク滞在中に囲っていた愛人だったと判明した。当初ニセ情報と思われていた飯沼朗に関するデータが、実は真実であった可能性が出てきたのだ\(@o@)/
正直言ってこの展開が本当に必要だったのかどうか、疑問である。ただでさえ多すぎる謎の解明に四苦八苦している時に、いかに朗の正体に迫る要素とはいえ、またしても変数を増やすことが賢明だとは、少なくとも僕には思えなかった。「王様になる」というテレビ版ラストの台詞に縛られすぎだし、だいたい本当に総理の遺児だとしても、いかに政治家の多くが世襲の時代とはいえ、すぐ総理のあとを継いで国政をになえるわけではない(総理の息子が「王様になる」ことができるなら、小泉孝太郎は今頃総理大臣だ)このアイデアがどこから出たものかは、結局明らかにされないまま終ってしまったが、人工知能であるジュイスがこうしたオリジナルなアイデアを出すとも思えないし、といってMr.OUTSIDE自らの決定とも考えにくい。肝心なところがうやむやな話には、どこか胡散臭さが付きまとう。残念ながら本編には、終わりに近づくほどそうした匂いが強まる傾向が感じられた。
観ている側としてはそんなことよりも、たとえば朗はいかにして何度も記憶を消したりできるのか、それが果たして誰の手によるものなのかの方が気になるのだが、そのあたりは結局最後までひとことも触れられずに終った。要するに、Mr.OUTSIDEとジュイス、それからセレソンたちとをつなぐ線が、ノブレス携帯以外まったく見えないのだ。ちょっと考えてみればわかるが、セレソンの要求を受理してさまざまな指示を出すジュイスは人工知能に過ぎないので、自分自身ではどんな行動も起こせない。スパコンであるジュイスにはメンテを行う人員も大量に必要だろうし、無理な要求を実現するための手足となる人間が皆無というのもありえない気がする。
一方のMr.OUTSIDE、つまりテレビ版当時から行われてきたゲームの主催者探しは、これまたあっけなく見つかってしまうのだが、こちらもちょっと捻りが足りなすぎ。ああいう選定の仕方だと、ふだんタクシーに乗らない人間は端からセレソン候補者にはなれない^^;
劇場版 I の終盤で、とにかくゲームに勝ちたいセレソンNo.1、物部はライバルのセレソンたちのジュイスにミサイルを撃ち込むのだが、なぜゲームシステムそのものを否定する行為が受理されたのかよく判らない。本来ATO播磨脳科学研究所に設置されていたそれぞれのジュイスが、トレーラーに乗せられ移動させられたのはおそらくMr.OUTSIDEの指示によるのだが(物部による攻撃を予知していた、ということなのか?)うみほたるのシーンではそれにMr.OUTSIDEの孫娘たちも同行していることが明かされており、彼女たちの会話から当然Mr.OUTSIDE本人も事件のことを知っていたと思われる。知っていてなぜ阻止しなかったのか、そうした「行動力」が本当に日本をよくすると思っているなら、こんなゲームなどせず右翼政党に数千億の資金をポンと与えた方が遥かに手っ取り早いと思うのだが。
「功殻機動隊S.A.C.」などを観ても判るとおり、神山監督はファシズムを毛嫌いする生粋のリベラリストのようだが、その彼の手により生み出された物部のファシズムへの傾斜はいかにアニメとはいえ単純すぎる。理屈が浮いているというか、地に足がついていない気がするのだ。悪玉に説得力がないと善玉も光らない。だから終盤の朗による全国民一人ひとりへの電話も、あまり説得力を感じなかった。
テレビ版で詰め込み過ぎた謎を解消しようと、脚本も書いている神山監督は頑張ったと思うが、自分で蒔いたさまざまな要素に振り回されすぎ、肝心のテーマ性がややおろそかになってしまった点は否めない。そもそも続編は、正編のインパクトを拡大再生産するところに存在意義が認められるものだが、残念ながら本編にはテレビ版クライマックスの「ミサイルの雨」に匹敵するスペクタクルもなく、ひたすら伏線の収拾のみに精力を使っているように見えた。これまでの神山作品は原作つきの作品ばかりだったので、その理解力や構成力の高さが目立ったが、何もないところから物語を「創造」しなければならないオリジナル作品には、それとは別の才能が必要なのかもしれない。
映画のラストで「どうしてもやらなきゃいけないこと」があると言い残し、朗はふたたび咲の前から姿を消すのだが、その「やらなきゃいけないこと」はエンドロールのあと実行される。まあ、テレビ版からときどき公言していたことなので、あまり驚くには当たらないが、その後彼が咲のもとに帰ったという描写はなく、かわりに咲のモノローグ「これが私と滝沢君の、たった11日間の物語だ」によって映画は締めくくられる。
もちろん、風来坊のヒーローは、いずこともなく去って行ってこそ物語が終るのである^^;・・・
★★★

2