冒頭、レインボーブリッジを走るゆりかもめの車窓から、併走する小型トラックを撮った場面が印象的。本筋とはまったく関係なく、トラックも仕込みなのか偶然走っていたのかわからない。撮影監督のリー・ビンビンはウォン・カーウァイやトラン・アン・ユンといった、いわゆる映像派の監督と組んで仕事をしてきた人なので、やはりトラックは仕込みなのかもしれない。
ダッチワイフが「心」を持って、自らの意思で動き始める、という設定はアダルト版「ピノキオ」みたいだが、原作「ゴーダ哲学堂」(業田良家・原作)で描かれた「空気を吹き込む」という行為の意味こそが「空気(で膨らませた)人形」をヒロインに持ってきた理由なのだろう。そういえば、人の形をした土くれは、神から息を吹き込まれて初めて「人」となるのである。
「のぞみ」と名づけられたダッチワイフに扮するのは、韓国人女優のペ・ドゥナ。顔を知られた日本人女優を使わなかったのは慧眼であろう。もちろんペ・ドゥナ本人の演技力も大きいが、モノローグのやや片言めいた日本語は、それを母国語とする者には不可能な匙加減だと思う。日本人がああしたしゃべり方をすると、どうしても作為が滲み出てしまうからだ。
ダッチワイフでもちろん何の身分証明も持たないのぞみが、いかにしてレンタルビデオ店のアルバイト店員になれたかは謎だが、彼女はそこで純一(ARATA)という青年と出会う。ちょっとしたことで、純一はのぞみがダッチワイフであることを知ってしまうのだが、これは後の悲劇への重要な伏線ともなっている。
全体に淡々とした展開の映画で、なぜ樹脂製のダッチワイフが「心」を持ってしまったのかという理由付けもなければ、その事実を否定しようとする人物も現れない。普通そんなことになれば、人は自らの正気を証明するため、やっきになってその原因を追究しようとするはずなのだが。ダッチワイフを製作している人形師(オダギリジョー)に至っては、工場に戻ってきたのぞみを「お帰り」とやさしく迎える始末。彼の態度からは「よくあること」という無感動な感想しか伝わってこない。これはそうした世界観の映画である、ということなのだろう。
以下ネタバレあり、まだ観てない人は読まないように
純一はのぞみとの性交渉で、彼女の空気を入れたり抜いたりして遊ぶ。もちろん擬似的に生死をもてあそんでいるわけだが、のぞみも純一に同じことをしようとして彼を死なせてしまうくだりは、肝心の行為がほとんど画面に写らないため、よくわからない。あまりに直截な表現は避けたかったのだろうが、意味が通じなければ仕方がないと思うのだが。直接の行為は無理でも、凶器となった刃物くらいは見せてもよかったのではあるまいか。
純一の死体をゴミとして集積所に出した後、心を失ったのぞみも同じようにゴミ捨て場にその身を横たえるのだが、時おり点描的に登場していた過食症の女(星野真里)が自室の窓からその姿を見て「きれい」とつぶやくところで映画は終わる。それがいったい何を意味していたのか、深読みの苦手な僕にはわからなかった。
・・・
★★★★

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