本編が黒澤明の「用心棒」を無断盗用した廉で訴えられた話は有名だが、確かに町を二分する勢力に風来坊が割って入り、両方とも叩き潰してしまうという基本設定は同じものの、並べてみるとかなり印象は違う。誰が見ても気づく違いはヒロインの設定だが、それ以外にもいろいろ違う点は目につく。しかし何より違うのは、やはり主人公。
当初、イタリア側は主人公に別の有名俳優を考えていたが、ギャラの折り合いが付かず、当時テレビの西部劇ドラマ「ローハイド」でブレイク中だったクリント・イーストウッドに白羽の矢が立った。契約の関係でドラマ放映期間中にハリウッドの映画作品に出演を禁じられていたイーストウッドは、それが理由でこの仕事を引き受けたというが、その後の彼の映画人生を決定付けるキャラクターをこんな形で引き当てたのだから、世の中何が幸いするかわからない。
とにかくこの映画の最大の成功は、主人公にクリント・イーストウッドを配役した、ということに尽きる。もちろん、黒澤映画中最高の傑作を下敷きにした脚本もいいし、後にどんどん肥大化して行ってしまうレオーネの演出も、当時はまだタイトに決まっていた。がしかし、やはり主役がクリント・イーストウッドでなければ、本編がただの凡作で終っていた可能性はかなり高かったのではないかと思われる。
黒澤の「用心棒」で主役を演じた三船敏郎は、主人公の侍、桑畑三十郎を徹底して「動」的キャラクターとして演じた。それに対して本編の主人公ジョーは、あくまで「静」的キャラクターで通している。それまでの西部劇には付き物だった乱闘にもいっさい参加しない。敵を殺すガンプレイも、必要最小限の動きだけで表現している。しかも、圧倒的な説得力を持って。
以下ネタバレあり、まだ観てない人は読まないように
それは、ラストシーンのガンプレイで極まる。胸に当てた鋼鉄の板でラモン(ジャン・マリア・ボロンテ)の放ったライフル弾をことごとく防いで見せたジョーは(なぜラモンが頭でなく心臓しか狙わないかという理由も、それとなく伏線を張っていた)弾切れを起こしたライフルを捨てたラモンと対等な立場で戦いたいと、自らの弾丸の切れた拳銃を目の前に放り投げる。千載一遇のチャンスにライフルに飛びつき弾丸をこめるラモンを尻目に、すかさず拳銃を手に取ったジョーは一発の弾丸をシリンダーに込め、それを瞬時に発射位置まで回転させて、ようやくライフルを構えたラモンめがけて発射、その一発で仕留める。それが「ライフルと拳銃とで戦ったら、必ずライフルが勝つ」と宣言したラモンへの、ジョーの回答だったのだ。
この後イーストウッドは「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」の二作品(いずれもセルジオ・レオーネ監督作品)に出演したあとハリウッドに戻り、「マンハッタン無宿」でドン・シーゲル監督に出会って、それが「ダーティ・ハリー」につながっていく。この二人の監督は生涯の師として、イーストウッドが尊敬して止まない人物なのだそうだ。
マカロニ・ウェスタンの嚆矢として、また、クリント・イーストウッドの主役デビュー作として映画史上でも重要な作品と思うが、脚本のわずかな不備(たとえば「牧場で銃声がした」といって野越え山越え駆けつけるミゲル一家とか、拷問にあって足腰立たないはずのジョーが巨大な樽が転がり落ちる仕掛けをどうやって作ったのか、など)のおかげで★★★★★を付けられないのが、返すがえすも残念だ。・・・
★★★★

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