Wikiによると、監督の犬童一心が大島弓子作品の映画化を手がけるのは本編で三作目なのだそうだ。最初の作品「赤すいか黄すいか」はアマチュア時代の16ミリ作品なので未見だが、前作「金髪の草原」の感想は
こちら。
さて本編は、原作がコミックエッセイというちょっと変わったジャンルの作品であり、私小説の映画化作品のような体裁をとっている。主人公の少女マンガ家小島麻子は、映画に登場するその著作などからして大島弓子本人であることに間違いないし、冒頭に出てくる愛猫サバの死や、本人がかかる病などのエピソードも現実をほぼなぞっているようだ。
もちろん、細かいところを見ていけば、原作のサバはシャム系のハーフ猫(僕はずっと去勢オスだと思っていたが、実際にはオスのような顔立ちをしたメス猫だったようだ)だったはずなのだが、典型的な二毛の日本猫になっていたり(シャム系ハーフは微妙な色の出方をするので、そっくりな色柄の代役を何匹も集めなければ撮影できない劇映画には向かない)栃木県出身のはずなのに母(松原智恵子)が関西弁をしゃべっていたりと、微妙なズレは否めないが^^;
残念ながら原作を未読なので、本編がどの程度忠実なのかは判らないが、麻子先生を演じた小泉今日子は、実物の大島先生らしさをうまく出していたように思う(元ギョーカイ人なので、特にこの時代の諸先生とはけっこう面識があるのだが、大島先生には一度もお目にかかったことがない)なんだかいつも眠そうに見える麻子先生だが、実際漫画家の生活パターンはムチャクチャで、何日も徹夜したり昼夜逆転など当たり前、大病を患って早死にしてしまう人が他のギョーカイより遥かに多いのである。
本編のもうひとりの主人公は、物語の舞台でもある吉祥寺の町そのものだ。かつて、自転車でも行けるほど近くに住んでいたので、あの町はかなり隅々にまで土地勘があるのだが、見たことのある場所がそれこそふんだんに登場する。いくぶん名所めぐりっぽい色彩が出すぎてしまったのは減点対象だが、雰囲気は申し分ない。
そして、これ無しには始まらない肝心の「猫」である。原作の設定が色柄の変化が少ないアメショーなので、代役を集めることは簡単にクリアできる。よく、動物に演技をつけることは極めて難しいため、必然的に大量のフィルムを浪費することになる、などといわれているが、本編を注意深く見ていると、難しそうなところは巧みなカット割りで誤魔化しており(たとえば猫用のくぐり戸を通り抜けるシーンなど、うまくカットをつないでそれらしく見せている)それほど苦心のあとは見られなかった。しかし、そのおかげで本編に於ける猫の比重は比較的軽く見えてしまい、わざわざタイトルに持ってくるほどのこともなく思われた(もちろんこのタイトル、漱石の「吾輩は猫である」に引っ掛けたものだろう)
猫の描写でひとつだけ気になったのは、発情してメス猫を追っかけるグーグーが出していた小鳥のような声(?)確かにこういう状況の時、猫は普段の「ニャー」という声は出さず、「グルルル」もしくは「キュルルル」と聞こえるささやき声みたいな声を出すのだが、ちょっと鳩のようにも聞こえるものの、あれほど鳥っぽくはない。声というよりは、「発情」をイメージさせるための効果音なのかもしれないが、いったいどういう意図だったのだろう。
今回はあまり具体的なストーリィについては書かないが、上野樹里、加瀬亮の二人が好演したフィクション部分(いかにも架空の人物っぽい)と、マーティ・フリードマン演じる死神が登場するファンタジー部分、そしてその両者の接点にいる小泉今日子≒小島麻子≒大島弓子がうまく融合できていなかった感は否めない。小泉演じる麻子先生が大島弓子に近づけば近づくほど、現実とは乖離しているフィクションやファンタジーが浮いてしまう、ということなのかもしれない。・・・
★★★

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