映画版を観ていろいろ疑問に思ったこともあったので、2006年再放送されたテレビドラマを録画したDVDを発掘し、久しぶりに鑑賞した。
観た当時にも思ったのだが、堂々とした楷書体で描ききった快作である。前後編あわせて150分という長さがいささかも気にならないほどテンションは持続し、複合したさまざまなテーマを見事に消化しきっていた。
映画版ではスッポリ省かれていた、投書欄のくだりが実は本編最大のテーマというか、マスコミ人の矜持について語る重要な要素であったことが、今回の鑑賞でよくわかった。この部分なくしてこの物語は成立し得ない、といっても過言ではない。それを省いた映画版がどこか無表情な、「情」に欠けた公式文書のような様相を呈したのも無理はない。漫然と見ていると気づかないが、ドラマ冒頭で描かれる、部下であった望月の死は主人公悠木(佐藤浩市)の記者としての新たな原点であり、その姪であった彩子(石原さとみ)の登場こそが、「報道すること」の意味を新たに問い直す、きわめて重要なシークエンスだったのだ。だからこそ悠木は自らのジャーナリスト生命をなげうってまで彩子の問いかけに答えようとし、その結果ワンマン社長の不興を買って、遊軍記者としての地位を失い、地方の連絡員として飛ばされてしまう。
「命の重さ」というテーマは、映画版でも事故の現場取材をした記者の一人が半狂乱となり、車に飛び込んで死んでしまうという^^;無理やりなエピソードでいちおう触れてはいるものの、いかんせん取って付けた感は免れなかった。彩子の台詞の一部を部下の女性記者に語らせてはいるのだが、いかにも唐突であり、その後に語られることもないので、ほとんど印象に残ることもなかった。
もちろん、この部分を削除し、純粋に日航機墜落事故関連のエピソードだけに話を絞る、というやり方(映画版はもろにそれ)も不可能ではないが、その結果何が残るかといえば、結局は新聞社という会社組織における組織論ということになってしまう。大久保連赤世代のロートルと、悠木たちその後の世代との葛藤というテーマもそれなりにドラマとして成立するとは思うが、やはりどこかに一本柱が足りない、というスカスカ感がどうしても否めなかった。
それが端的に現れてしまったのが、物語後半に登場する、編集部に新聞を求めに来る遺族のエピソード。ドラマの中ではそれが悠木の記者魂に火をつけ、後の展開に大きな影響を及ぼすのだが、映画版ではただ登場するだけで、ほとんど意味のないシーンになってしまっていた。また、社会部長等々力(岸辺一徳)と悠木が衝突し、仲直りのために設けられた酒宴の席でふたたび怒鳴りあいの喧嘩に発展してしまったとき、等々力の最後の長台詞が映画版では削除されてしまったため、単なる悪役のまま終ってしまった。物語を組織論として描ききるために、悪役は悪役のままにしておきたかったということなのだろうが、おかげでかなり薄っぺらな人物像として終始し、後半のクライマックスとも言える販売部とのやりあいのシーンも、ドラマ版ほどの盛り上がりには至らなかった(ただし、ドラマ版では省略された配送トラックのキーを盗むシーンは手際よく挿入され、シチュエーションに具体性を与えていた)
しかし、本編最大のキーポイントは、タイトルにもなっている「クライマーズ・ハイ」という言葉そのものヘのこだわりだ。映画版ではそのあたりがもうひとつはっきりしなかったのだが、本編では親友・安西(赤井英和)やその山仲間末次(伊武雅刀)の台詞を通して克明に語られる。それは、史上最大の飛行機事故という巨大なヤマに立ち向かう記者としての立ち位置そのものであり、同時に前述のマスコミ人としての矜持、さらには悠木と安西それぞれの家族たちとの関わりあいに至るまで、さまざまな部分に影を落とす、きわめて重要なキーワードである。
どうしてこのドラマが物語の現在(2005年)、60歳になった悠木が谷川岳衝立岩に挑む場面で終らなければならなかったのか、その理由も納得できようというものだ。・・・
★★★★★

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