ジャンルとしては、いちおうタイムスリップものに属する系統の作品なのだが、それにはつきもののタイムパラドックスにはまったく言及がなく、単に、主人公たちがなにげなく時間の中を行き来できてしまうファンタジー作品というべきかも知れない。
それにしても、実際「地下鉄に乗って」タイムスリップする場面は皆無であり、タイトルに偽りありである^^;地下鉄の出口を出ると、そこは東京オリンピック開催当時だったり、日常の何気ない場面でいきなりタイムスリップしていたりと、まるっきり「お約束」無視のご都合主義的展開だ。
もちろん、原作者浅田次郎はSFとしての面白さを狙って本編を書いたわけではなく、物語の中で繰り広げられる人間模様を描きたかったのだろうが、それにしても、このジャンルに手を染めるなら最低限のルールは守ってほしかった。そうでないと、絶体絶命の窮地に陥ってしまった主人公が、次の瞬間何事もなかったように普段の日常に戻ってしまっているとき、観客は唖然とするしかない。
小さな衣料品メーカーのサラリーマンとして働く真次(堤真一)は、実は大企業のオーナー、小沼家の次男坊であった。彼はある日、地下鉄の駅構内で中学時代の恩師と偶然再会する。恩師と別れた後、通路を一人歩く真次の先に、若くして亡くなった兄にそっくりな人影があった。そのあとを追って街に出ると、そこは昭和39年の渋谷だった・・・。
兄は父とのいさかいの挙句に家を飛び出して、交通事故に遭ってしまったのだが、今日がまさにその日だと気づいた真次はなんとか兄を家から出すまいとする。しかしその努力は実らず、兄を救うことはできなかった。
真次には妻と一人息子のほかに、真次のいる会社で事務をしているみち子(岡本綾)という愛人がいた。二度目のタイムスリップで彼は終戦直後の東京に迷い込むのだが、そこになぜかみち子も来ていて、ふたりはアムールと名乗る謎の男と関わることになるのだが・・・。
以下ネタバレあり、まだ観てない人は読まないように
実は、アムールこそが真次の父の若き日の姿(大沢たかお)であり、その後も真次は彼の人生をなぞるようにタイムスリップを続けることになるのだが、その影にはみち子の姿を常に伴っていた・・・。
少し前、ささいなスキャンダルに関わった後引退してしまった岡本綾が、ここでは薄幸の娘、みち子を好演していた。自らの出自を知った後の彼女の行動は原作にはないものらしいが、この部分だけがかろうじてタイムスリップものらしい「理屈」を主張していた。
すべてが終わって現代に戻った後、みち子が背広のポケットにそっと忍ばせていた指輪に気づいたとき、真次にそれが何かわからなかった、という演出は、おそらくみち子の行動の結果、みち子という存在そのものが最初からなかったことになっていた、という意味なのだろう。穿った見方をすれば、そもそもみち子が指輪をポケットにしのばせる動機がよくわからず、このラストシーンへの伏線のためにのみとった行動とも思える。もちろんその時点でみち子は自らの出自を知らなかったので、この行為にはまったく意味がなく、シナリオライターの都合で作られたシーンというしかない。
全体にあまり必然性のない展開で、情緒たっぷりの劇伴でごまかされてしまうが、よく考えるとこれほど矛盾だらけのタイムスリップものもないのではなかろうか。だいたい東京オリンピック当時すでに青年といえる年齢になっていた真次は、現代では還暦に近い年齢なはずで、堤真一ではいかにも若すぎ、さらにみち子を演じた岡本綾にいたっては、フェイスリフトの秘訣を教わりたいほどの若さである^^;原作を未読なのではっきりしたことは判らないが、浅田次郎という作家がこの程度のものしか書けないということもないだろうし、やはりここは、原作を下手にいじってメチャクチャにしたシナリオライターに責任があると思いたい。
それにしても、せっかく東京メトロが製作協力しているというのに、肝心の地下鉄をぜんぜん使いこなしていない映画になってしまったのは実に残念だ。・・・
★★

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