丁度20年前の今日、平成7年1月17日の午前5時46分、兵庫県淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の大地震が関西圏を襲いました。
後に「阪神・淡路大震災」と命名されるこの大震災は、特に、150万都市神戸を中心とする兵庫県南部(阪神地区や明石など)や淡路島に、壊滅的な被害を与えました。
戦後に発生した地震災害としては東日本大震災に次ぐ規模で、国内史上初の震度7が観測された激震でもあり、死者6,434名(そのうち災害関連死による死者は919名)、行方不明3名、負傷者43,792名、全半壊家屋合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊家屋390,506棟、被害総額は9兆9,268億円(国予算のほぼ1割の規模)という、極めて甚大な被害を記録しました。
改めて、震災で亡くなられた方々の御霊(みたま)の安らかなる事、心よりお祈り申し上げます…。
あの震災から20年の歳月が経ち、被災地にはかつての傷痕はほぼ全く窺えなくなり、「被災地なのに被災者が住んでいない」と言われるほど、世代交代も進みましたが、それに伴い震災に対しての人々の関心はかなり薄れてきています。
4,564人もの人々の命を奪われるという、同震災で最多の犠牲者が出た神戸市でも、震災を経験していない市民の割合は現在4割を超えており、6年後には、その割合は5割を超えると算出されています。
しかし、震災で大切な人を失った遺族の方々や、当時被災した記憶を今でもはっきりと持っている人達にとっては、阪神・淡路大震災は今も終わっていません。
丁度一年前にある新聞に掲載された、被災者や遺族達の以下のコメントからは、当事者と、当事者以外の人達との感覚のズレを如実に感じました。
「
『来年の20年が一つの区切りだ』と言う人がいるが、そういうことを言うのは決まって部外者。震災を体験した私達は、つい先日の事のように思いながら今を生きているのに…」
「
大震災で亡くなった人達の死を無駄にしないためにも、生き残った私達は物語を紡いでいかなくてはいけません」
震災を決して風化させないためにも、微力ながら私は、今後も引き続き各ブログやツイッター、SNS等で、阪神・淡路大震災や東日本大震災についての情報を積極的に発信し続けていきます。
以下の写真はいずれも、阪急電車の当時の被災状況が写されたものです。
阪急では、特に神戸線系統の路線・駅施設・車両等が甚大な被害を受け、高架駅の三宮駅や伊丹駅、神戸本線の西宮北口〜夙川間の高架橋が崩落するなどしました。
以下の写真はいずれも、阪神電車の当時の被災状況が写されたものです。
阪神の石屋川車庫では高架式の留置線が多数の車両とともに崩落し、この他の被災と合わせ、阪神では保有していた車両の1割以上にあたる41両が廃車となりました。
以下の写真は、山陽電車の当時の被災状況が写されたものです。
以下の写真は、神戸高速鉄道(高架区間)の当時の被災状況が写されたものです。
下の図は、被災地の鉄道復旧状況を示したもので、被災した路線の完全復旧までには7ヶ月を要しましたが、上の各被災写真などを見ると、7ヶ月という期間はむしろかなり早かったといえます。
神戸と大阪の二大都市を結ぶ3線(阪急・阪神・JR)の不通により、1日約45万人もの足が奪われましたが、復旧は急ピッチで進み、山陽新幹線は早くも4月には運転を再開し、そして8月23日の六甲ライナーをもって、被災地の鉄道は全て復旧しました。
なお、今日の記事では、阪急、阪神、山陽、神戸高速の4社が受けた、路線・車両等の被害状況写真を掲載しましたが、上の「鉄道の復旧状況」の図も示しているように、実際には、これら4社以外の鉄道会社も、大きな被害を受けました。
JR西日本が受けた路線や駅等施設の被害については、丁度一年前の、
昨年1月17日の記事を御参照下さい。

1