政府が100%出資する公共企業体(公社)として昭和24年6月に発足した「日本国有鉄道」は、鉄道での旅客輸送・物流を担う立場から、戦後の復興期や高度経済成長期の日本を支え、日本経済の発展や国民生活の向上などに多大な貢献をしてきましたが、昭和62年3月31日、分割民営化施行によりついに“最後の日”を迎え、その日をもって国鉄は約40年(戦前の鉄道省時代も含めると115年)の歴史に幕を閉じました。
そして、日付が変わった翌4月1日の午前0時、国鉄の事業を継承したJR各社が発足し、現在に至ります。
下の写真は、先日私が札幌市内の鉄道部品専門店で購入した、実車に使用されていた鉄製の「日本国有鉄道」のプレートです。当時はこのプレートを付けた国鉄の車両が全国各地を走っていました。
ちなみに、この写真では大きさの比較対照のため、プレートの前にNゲージの鉄道模型一両(トミックス製C57-135号機)を置いてみました。
国鉄の終焉・JRの誕生から既に20年以上が経ちましたが、国鉄が廃止されたその日のことは、私は今でもよく覚えています。
当時はテレビ番組でも、国鉄が廃止されJRが発足する話題は特集としてよく放送されていましたし、国鉄が廃止されるその瞬間(4月1日午前0時)には各地でカウントダウンの行事が行われるなどし、鉄道ファンであるか否かに関係なく、末期の国鉄は全国的に関心を集めていました。
当時まだ子供だった私の場合、国鉄が最後を迎える瞬間は、テレビの特番を見ながら迎えました。
北海道では、当時の小樽築港機関区でカウントダウンが行われ、国鉄北海道総局が昭和61年に初めて造りあげたジョイフルトレイン「アルファ・コンチネンタル・エクスプレス」や、その翌年に完成した当時最新鋭のジョイフルトレイン「フラノ・エクスプレス」、そして、静態保存機の状態から本線を営業運転できる状態に復旧するため整備中だった「C62-3号機」など、当時の北海道の鉄道を象徴する車両達が一堂に集結する中、午前0時の“その時”を迎えたのです。
ちなみに、“その時”は私個人にとっても、丁度小学校から中学校へ進学するという、人生における一つの節目の時でした。
下に貼付の動画は、先日、動画共有サービスの「YouTube」で見つけた、「国鉄最後の日」の特番の一部です。私はこの動画を見て、国鉄最後の日の事をとても懐かしく思い出し、今回のこの記事を書くに至りました。
京都の梅小路運転区で“その時”を迎える様子がアップされており、なかなか感動的です。改めて、また
梅小路に行ってみたくなりました(笑)。
この動画には、『
懐かしい、感動!郷愁を感じる。政府の一機関が単に無くなるだけの話だが、国民にこれほど別れの感動を与えた役所は他には見当たらないのでは。郵政民営化で泣いた国民はいるのか?? 』というコメントが付けられていましたが、確かに、国鉄の他にも日本電信電話公社、日本専売公社、日本道路公団など民営化された機関はいろいろとありましたが、全国各地でカウントダウンが行われるほどその終焉が惜しまれたり、その継承機関の誕生が期待されたりしたという事例は、国鉄・JR以外にはありませんでした。
そう考えると、国鉄は、鉄道でヒトやモノを運ぶための単なる一機関ではなく、明らかにそれ以上の意味や価値を持っていたと言えます。
今も昔も、列車や駅では、世間一般には知れ渡ることのない数多のドラマが繰り広げられ、そして、そこでは多くの人達の人生や運命が交差している、と言っても言い過ぎではないですよね。
下の動画は、西鹿児島(現・鹿児島中央)に向けて尼崎市内を走行中の寝台特急「はやぶさ」車内で迎えた“その時”の様子です。
寝台車の中ということもあり、こちらでは特に目立った動きはなく、静かな雰囲気の中で、国鉄「はやぶさ」からJR「はやぶさ」へと変わりました。
ちなみに、上の動画の中でも触れられているように、国鉄が分割民営化されたことにより、鉄道公安官も、各都道府県警察の鉄道警察隊へと移行されました。最近の子供達は、多分もう、鉄道公安官なんて聞いたこともないんでしょうね(笑)。

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