秋間岩戸山の赤穂義士像
秋間全体の供養祭(和田町花園の関係者を迎えて)
忠僕元助の唄に振りつけた日舞を舞う
忠僕元助は、赤穂義士片岡源五右ヱ門の忠僕となり、義士切腹後生地上州秋間村に帰り、義士たちとその主君浅野内匠頭長矩夫妻の供養石像を建立する為、東秋間観音堂に仮寓して剃髪し、名を音外坊と改め、諸所を巡錫して喜捨を集めて二十余年、ついに故郷岩戸山に石像を建立した。その後、飄然と諸国巡錫に出で、二度と故郷に姿を見せなくなったが、房州和田浦の長香寺に足を留めて村民を済度し、6年後、自身の天命を知り、近くの黒滝不動の側に岩窟を穿って、その中に入って自ら石蓋を覆い、3×7の21日間念仏を唱えながら入定した。享年53歳。
花園黒滝不動の幽地に入定の場所を選び、村民を火難より救わんと21日間、最後の祈念を終えて静かに瞑目したという。
その名を向西坊と称され、火難除けの神様として村民により手厚く祀られた。
安中市秋間では、明治になって地元の有志が二代に亘り数十年、元助のその後の足跡を辿り、ついに長香寺にたどり着いた。処が、「向西坊は石州の人なり」と、当時の青年団建立の石碑に記されていた事を見て、その相違に愕然としたという。その後元助研究は中断され、昭和28年地元郷土史研究家の中澤多計治氏により再度検証され、元助と向西坊が同一人物で有る事が判明した。
すでに建立されていた碑文を訂正して、房州和田町と上州秋間(安中市秋間)とが友好都市を締結。
隔年にその縁の地に於いて供養祭を開催して、今年49回目を迎えた。

1