松助窯の登りと穴窯
大堀相馬焼は二十数軒の窯元がある。中でも異色な窯元があった。
やけに大きな建物と、珍しい、集古館と言う看板が目に留まった。
組合で尋ねた時は、登り窯などを使っている窯元は無いと聞いたので、少々期待外れかと思って居たが、あるではないか!
以前は7人もの職人を雇って生産して居たが、昨今の経済不況でこの窯も規模を縮小して家族だけで営業しているとの事であった。
お気の毒な事に、10年程前に50歳とかで当主であるご主人に突然逝去されてしまって、大きな規模の窯元を42歳の若さで切り盛りせざるを得なくなったという、美人の奥様が、
大きな展示場の閑散とした(私たちのみ)中でストーブに火をいれ、お茶を入れてくれて、しみじみと、思い出話、苦労話をしてくれた。
二階の古陶磁集古館には様々な古い相馬焼が展示してあった。 実はこの古陶磁を目的に来た次第だ。その他、第一の目的は4月の陶芸研修旅行の下見であったが、大勢の門下生達を連れての見学では、研究目的の調査は無理である為。
この窯は変わっている。登り窯と穴窯の壁がくっついていて、登り窯を焼く時は片側からのみ薪をくべる事になってしまう。極めて大雑把な作りだ。それでも作品は焼けるのだ。
古い相馬焼と、我が自性寺焼の古い作品が、技術的且つデザインまでも共通していて、双方を並べて観ても判別がつかない程だ。当時の流通事情が益々興味深い物になった。
然し、其の作品とは別の謎多き自性寺焼の調査が目的であった。一見大堀相馬焼と思ってしまうが、数人の窯の当主に見て貰ったが、いずれの方も相馬焼では無いとの答えであった。

上の作品が
謎の自性寺焼である。
現在確認されている、3か所の窯跡からは陶片が出土していない。しかしすべて否定することは些か早合点とも思う。なぜ骨董商がこの手の作品だけを自性寺焼として取引していたのかが大きな謎である。もちろん、優れた技術による立派な作品で、到底庶民の使える様な作品ではない。絵付けは九谷焼の技法であり、胎陶は相馬焼の似て非為るもの。安中藩のお庭焼では無いかと言う確率が高まった。
もしこの手の作品に心当たりがある方は是非、教えていただきたい。

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