死にたくなるほど楽しい死に方がありそうでないことが残念ながら本当のようです
それならもう死んだ方がよいと言えるのはどのような状態になった時かを 初心に帰って考えてみよう
終末期とは言え まだまだ生きることに未練があるうちは死にたいと思わない
未練があるけども 死んだ方が未練よりマシな何かがなければ死のうとは思えない
そのマシな何かとして 未練よりももっと楽しい死と言うものがあることに期待して来たのですが そう簡単には見つからない
しかし見つかったとしても それが未練よりマシかどうかの判断が確実に分かり易く出来なければ成りません
それには先ず 未練を定量評価しなければなりません
やりたいこと つまり死ぬ前にしておきたかったことなら それに必要な費用になります
終末期で身体が思うようにならなかったら 少し余計な費用が掛かるでしょうが 割と計算し易いかも知れません
それよりそんなものが欲張り老人から次々と出てきて限が無いかも知れないことの方が心配です
もう一つ計算して置かなければならないのは 終末期医療介護の費用や家族などへの負担です
これも割と計算し易いかも知れません
詰まりこれらはこれから生きるのに必要なコストで あと何年生きられるかを考慮しなければなりませんが これは仮定するしかありません
未練の実現費用と延命費用のそれを合計すると生きるコストになるのです
9月4日に書き込んだカール・ベッカーさんの 命も「負荷コストで生死を決める基準」を議論すべき時期が来ているとの考えに同じ事です
これから この考えを進めるために 命の負荷コストと 楽しい死に方が見つかったとしてそれにかかる費用を見積もって どちらが経済的に有利かを考えてみます
勿論 経済比較で倫理を決めることの是非論はありますが それはそれでさて置いてとして置くことにします





2