初めての方に 先ずこの「読後感ブログ」のトップページとして このブログの全体の背景と構成を説明します(不要の方はこのトップを飛ばし 次の最新の書き込みへ)
このブログのスタートは10年前のブログ表題の本の「読後感」で それが発展し 自分の死を考えるようになり 更に社会的には安楽自死センターが必要で 終末期老人には自死を勧める考えにまで発展してきました
ところが今年2019年になって 私マイク自身がALSという終末期に入り 自ら自死を実践するべき立場になりました
到頭10年間の集大成の実践の時期なのですが 当の本人になると 体力や気力で実践がこんなにも辛いものかと知り始めました
その辺をお汲み取り頂いて 最近の書き込みを眺めていただきたく思います
先ず初めは 2008.3.30から 表題の本「自死という生き方」の「読後感」を述べるもので 自死した著者の「その安易な死生観を批判」し続けて 4.20には一旦終えました
2年経ってから 私マイク自身の老後の死に方について考えるために 「終活本」を読み漁り 2010.4.10から終活本の紹介としてブログを再継続してきました
また2012.7.19からは 死に対してもっと積極的な「楽しい死に方」を考えるブログになっています
経済停滞と超高齢社会の悲惨さを予見し 日本を救えるのは「安楽死」しかないとの思いからです
そんなものがあるのか 考えれば考えるほど実現は難しいのですが 左のサイドメニューの「記事カテゴリー」のようなテーマで考えながら マイクのライフワークとして展開してきました

先ずこの本の「読後感」 2008.3.30〜4.20
この本を読み始めたのは マイクが2008年2月10日のコンテンポラリーダンス公演に出演の後 きついヘルニヤにって死にたいくらいの激痛の時に 新聞の書評サイトにあったこの本に出会ってからです
書評を熟読しただけで共感し興奮しましたが だけど多分マイクにも納得できない言い分があるだろうことを察し本屋へ行ったのですが 1月25日の初版初刷在庫は市内のどこにもなく 2刷版を予約して待ってやっと読むことになりました
激痛は本当に 自死や安楽死を考えさせるくらい辛く タイトルと書評に共感して読み始めました
だけど須原さんのようには死ぬのは間違っていると感じて
2008.3.30 このブログを立ち上げました
自死という生き方 覚悟して逝った哲学者
須原一秀 双葉社 1890円
晴朗で健全で 平常心で決行される自死がありうる
65歳の春 ひとつの「哲学的事業」として著者が決行した自死
そのために書かれた遺稿「新葉隠」と 浅羽通明による解説を収録する
〈須原一秀〉1940〜2006 大阪生まれ 社会思想研究家
自身の哲学的事業として自死を遂げる 著書に「高学歴男性におくる弱腰矯正読本」「超越錯覚」ほか
1章 三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテス、それぞれの不可解
2章 なぜ彼らは死んだのか?
3章 「未練」と「苦痛」と「恐怖」
4章 死の能動的受容と受動的受容
5章 自然死と事故死と人工死
6章 武士道と老人道
7章 弊害について
8章 キューブラー・ロス―キリスト教徒の苦境
9章 補助的考察
10章 雑感と日常
初めに話した書評を 下記に転記します
大阪府立大 森岡正博教授 2008.2.24 京都新聞 より
これは真の論争の書だ
自殺について考察した本だが 社会思想研究家だった著者の須原さんは 人生を肯定したうえでの明るい自死は望ましいものであると本書で結論づけたのちに 二〇〇六年四月 身体も精神も健康なままで実際に自死した
六五歳であった
自死の直前まで書きつづられた本書の内容は力強く 自分の哲学をそのまま実行し得た者だけがもつすがすがしさを湛(たた)えている
今の風潮を考えれば この本は社会的には丁重に黙殺されるかも知れないが しかし人間の生と死に関心をもつ者はぜひ読んでおくべきであろう
人生で誰でも経験できるような「幸せの極み」を幾度か体験したがゆえに 「自分は確かに生きた」と日々身体で納得しており 今死んだとしても何の後悔もなく死ねると確信している人が 実際に自死すること
須原さんは そのような死に方のことを 絶望の自殺と区別して 「自決」と呼んで 擁護しようとしている
須原さんは 自決を前にした自分自身の気持ちを点検して 人生に対する未練も 死に対する恐怖も おのずと消滅していって 気にならなくなったという
自決する人間の精神は まったく暗いものではない
なぜなら 「死ぬべきときには死ねる」という確信があれば 気持ちに雄大さと明るさが備わってくるからである
「そこまでの確信があるのならば 別に自決しなくても 最後まで生きればいいではないか」という反論にたいして 須原さんは 痰(たん)でのどを詰まらせて苦しみのうちに窒息するというような死の迎え方よりも チャンスが到来したときみずから間髪を入れずに自決するほうが望ましいのだと主張する
須原さんが念頭においているのは 人生の大半を経験し終えた老年者の自決である
自決の仲間作りも提唱している
ここまで確信に満ちた自決の実行者を われわれは正しく批判できるのか
本書は現代人ののどに突きつけられた刃(やいば)である
大変美しく書かれている
しかし読後のマイクには 勿体なさを拭い切れず そこに人権や社会性についての社会思想研究家の心を読み取ることはできなかった
書棚に備えておくだけでは済まない大事なこの事業のこれからに マイクの遠からないその時のために望みを託したい
2008.4.20の「書評に魅せられて」で この日に一応この本の読後感ブログを終えることとしました
その後ブログを2年間放置しましたが 自死問題や老人問題が話題になることが多くなり もう一度考えるべき時期が到来したと判断し 2010.4.10より再開しました
その日は この本に刺激されたマイクが マイク自身の死に方を決めてしまったことをホームページに載せたことを紹介するものでした
それは
「私の自死道」と題して 2010.7.9
哲学カフェでも講演しました
http://mike12.web.fc2.com/jishidou1.htm 私の自死道
その後は 色々出版される老人の死に関する「終活本」や情報を紹介したりして マイクの考えを深めてゆこうとカテゴリー「読後感」の続きとして ブログを継続してきました
さてまたその2012.7.19の後はこれから「老人にとっての楽しい死」がありそうで またなければならないと直感するマイクですので それを真剣に考え探し出そうと思い 改めて「楽しい死とは」のカテゴリーで継続しています
考えれば考えるほど 老人マイクには 個人的にも社会的にも考え急がないとなりません
安楽死を社会的に容認しなければ救われられないとの思いから 安楽自死センターを構想し 安楽自死を勧める思考を確立するべく夜な夜な考え続けて参りましたが 実現の難しさを感ずるばかりです
ところが最近は2018年の夏から 呂律が回らなくなり 気が付いたこの冬には神経変性筋萎縮の難病が進行し 2019.1.30に府立医大に検査入院し 2.6 ALSと診断されました
つまりマイク自身が老人の終末期に突入し 安楽自死の条件を満たしてしまったのです
こうなれば 安楽自死の実践のチャンスとして このブログを最期に 頑張る時が到頭来ました
実現策をより具体的に考え 実践せねばならない終末期になりました
今は精神的な落ち込みと覚悟が錯綜し 体力気力とも落ち込んでいますので お見苦しい書き込みしかできませんが お読み頂き コメントか HPからのメールでご意見いただければ幸いです
Amebaブログからの訪問を期待して 2014.4.22に http://ameblo.jp/mike-st/ 「マイクスタンディングのブログ」を立ち上げました
FC2のHPと teacupのこのブログとも併用することにしました

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