鞆の石畳(60) 資料館の石畳
鞆の浦歴史民俗資料館(広島県福山市鞆町)の石畳は一辺が9cm程度の正方形御影石のブロックで敷き詰めてある。この石のブロックを扇形に敷くのもよく見かけるし、そのままベタに並べるのも普通によくある。表面は割りっぱなしで、坂道などではその細かい凹凸が滑り止めにもなる。平地でも雨の日の石畳は足元が滑りやすいが、このブロックだとその心配はない。福山城の西の県立歴史博物館周辺にもこの石のブロックが使われていたような気がする。
城址の石畳広場

写真の奥が北の方向。この広場一帯が鞆城の本丸跡です。資料館ができる前は鞆中学校(1949-1971)で、その前は城山公園の時代が長くあった。明治時代は洋食のレストランだったりした時代もある。城があったのは毛利が中国を制していた(織田信長や豊臣秀吉)室町末期から戦国桃山時代を経て江戸時代初期まで。その後は一国一城の制で取り壊されていた時期が随分長い。
学芸員さんがわざわざ外に出てきていろいろ案内して説明して下さった。(写真の奥)正面の刻印の石は全て本物だそうです。「ここから出た物ではなく、下の御堀とかいろいろな場所にあったもので、時代も場所もまちまち。刻印のあるものをここに集めたり、石垣の復元に使ったりしています。坂の両サイドの石垣はデザイン的なもので元からあったものではありません。」
写真の左奥に見えるのは早毛利神社で昭和になってから建てられたものです。刻印の石の展示の後ろ側に神社の参道があります。反対側(南側、写真の手前側)の坂の途中にある稲荷神社は明治時代から既にある。
資料館の南の石畳坂道


資料館の建物の南側の坂がちょっとカーブしている。坂の上から正面に見えるところに木戸がある。木戸の向うは一般の民家で、戦後に建てられた新しい家。
資料館の建物の下にある駐車場


木戸の向かい側に資料館の地下?駐車場がある。坂の法面の上に建物が建っているので、この駐車場も坂道の頂上の資料館のエントランスも共に坂道からは地続きなんだけれど、こういう場合はどう数えればいいのだろう。
学芸員さんの話「ここ(駐車場)に敷地内から出てきた石があります。」
敷石のような長方形の石が駐車場の入り口に並べて埋め込んであった。
一昨日は休館日だったので、麓での聞き取りのついでにもう一度資料館に行って、疑問に思っていたことを聞いてきました。予定よりも逆戻りしましたが、少しずつ坂を下っています。

para1002n(ぱら仙人)


2