鞆軽便鉄道(161)
ちょっとこの辺で落ち着いて整理しなければならない。鞆軽便鉄道はまだお城(福山城=広島県)の南外堀南西埋め残し部分が埋め立てられる前、大正2年にその手前の野上駅から鞆間が開業した。やがて南堀の残りが埋められ、福山町駅(三之丸)まで延長されたが、大正8年7月の野上堤防決壊で鷹取川鉄橋が一部崩壊した。さらに9月にも洪水の被害が出て、大正12年度から本格的に芦田川の改修計画がスタートした。
芦田川改修計画に基づいて、大川(芦田川)と鷹取川を一つにして真ん中の中川堤防の線を東岸にした東新堤防、西旧堤防の内側に新西堤防を築き、3本の流を一つにまとめる大改修が行われた。二つの川の間は古くから干拓された陸続きの農地や宅地で、水没する土地の買収や中洲の掘削、築堤など、10年継続、総工費600万円のプロジェクトだった。当初10年の計画も順次工期延長が繰り返された。(芦田川改修史)
その「改修史」の75ページに芦田川改修計画平面図が載っている。大正12年前後の道路と鉄道と河川の様子が分かる。(佐藤誠雅園さんのホームページ
「福山の干拓・芦田川改修昔風景」にその現物写真が掲載されていますので、詳細はそちらをご参照ください。
この平面図では、鞆街道の道路と鞆鉄道旧線は草戸と小水呑、水呑、田尻の四箇所で交差して、特に水呑田尻間は殆ど平行する箇所がない。道路と鉄道はまったく別の箇所に敷設されていたことが分かる。
大正12年というと今から86年前になる。その当時のことが手に取るように分かる人は殆どいない。さらに同書(芦田川改修史)には584ページに大正8年7月5日の洪水による氾濫区域図、616ページには昭和20年9月18日の洪水による冠水・氾濫区域図が掲載され、いずれも水呑駅田尻間、或いは中村、塞の峠(さいのたお)間は鉄道と道路が全く別ルートの離れた場所に描いてある。
聞き込みをしていて実際に鞆鉄道に乗ったことのある人には何人も会ったが、県道がまだなくて鉄道だけだった時代を知っている人は殆どいない。何度も乗ったことがある人、鉄道が廃止される前の様子をよく覚えている人でも、昭和29年に廃止される頃12歳だったとして、物心が付いて
記憶のある5、6才のころは昭和17年の様子でしかない。
昭和2年には鞆-御幸-鍛町-西町星の浦間の乗合自動車の運行が始まっている。昭和10年10月には競合するライオン自動車、ユニオン自動車から鞆〜福山間旅客自動車運輸事業の権利を買収している。それ以前から競合他社とのバス路線競争があったということだ。先を争って客を取り合うため、接触事故などのトラブルも度々起こっていた。
昭和17年頃の様子を自ら体験して詳しく証言してくれる人が
まだ生まれていない時代に既にバス(乗合自動車)が福山鞆間のどこかの路線を赱っている。「ここには鉄道しかなかった。乗合自動車路線、人の行き交う往還は今の場所ではない。」と佐須良池の頂上付近で畑仕事をしていた方の証言もあった。バス路線に切替を見越して鉄道を廃止するわけだから、それ以前に充分な道路整備も着々と進んでいたはずだ。年代ごとで道路と鉄道の関係や周辺の状況が違っても、すべてが証言者の記憶違いという訳ではない。
「物心ついたときから県道は旧道の方ではなく、バスがこの目の前を赱っていた。」(Iさん昭和22年生まれ)「鉄道だけで道路がないはずがない。鉄道の則面(のりめん)が県道の向こう側で、中央分離帯よりこっちに県道と鉄道の間の窪んだ則面があり、この歩道が県道の則面で、沼田の中を土手のように鉄道を通してあった。」(Hさん昭和16年生まれ)と仰る。「山から下りてくる水路の溝蓋を上げれば昔の法面(のりめん)の石垣が残っているはずだ。実際に見たことがある。鉄道の盛り土の則面はこの歩道近くまであった。」(Mさん昭和35年当地に移転)と仰る。
でも生まれる前には鉄道の横に道路がなかった時代もあったなどとは殆ど誰も仰らない。
誰が何年ころの様子を語っているのか、その前の様子は上の年代の人からの又聞きに自分の記憶を重ねて辻褄を合わせて話しているのか、その辺をよく見極めて整理していかないと、証言している人はみんな目の前の本当の話でも、寄せ集めると矛盾するようなことになってしまう。

para1002n(ぱら仙人)


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