■メモ用紙の束はあったのか?

AERAの記事によれば、日記の他にメモ用紙の束があったといいます。
日経新聞はこの「メモ用紙の束」について触れておらず、存在しなかったことにしたい意向のようです。当ブログのコメント欄で、「輪ゴムで止められていたのは手帳であり、メモ用紙の束は存在しないのではないか?」という意見がありましたので、簡単に検証してみたいと思います。
まず日記と手帳の画像を見てみましょう。

背後に立ててあるのが日記、並べてあるのが手帳だと思います。手帳はかなりの量ですし、見た範囲では輪ゴムの跡も判別できません。別紙メモはしっかりと糊付けされているようですので、手帳を輪ゴムと止めて保管する必然性はないでしょう。
バラバラメモ用紙だからこそ、散逸を防ぐ為に輪ゴムで止める必要があったと考えられます。ということで、
日記、手帳、の他に「メモ用紙の束」が存在した可能性が非常に高いと思います。
■別紙メモ用紙とはどのようなものか?
宮内庁長官時代の富田氏は、仕事にあたって「手帳」と「メモ帳」をもっていました。手帳とメモ帳の使い方の区別は(資料が公開されていないので)よくわかりませんが、メモ帳に書いたものを後に手帳に貼り付けることはよくあったようです。逆に言うと、仕事に必要なメモはすでに手帳に貼り付け済である。そう考えるべきだと思います。
では、手帳に貼り付けられていない「メモ」とはいったいどういうものだったのか?
事実関係としてはっきりしているのは、
(1)富田氏が日記をつけていたこと。
(2)(現在公開されている)手帳には私的な要件は書かれていないこと。
この二つです。
■別紙メモの性格
ここからは筆者の想像になります。
富田氏は、普段から別紙メモ帳を愛用していたものと考えます。
そのメモ帳は、私的な要件、仕事に関連する要件、両方に使用されていた。
私的な要件とは、例えば、今日は結婚記念日だから花を買って帰ろうとか、ゴルフの予定だとか、誰それと食事をしてこんな話をしたとか、要するに日記に書くような内容のものです。
先に述べたように、仕事メモはすでに手帳に貼られているはずです。
メモ用紙の束が残っていたならば、それは「私的メモ」なはず。
私的メモでも日常生活におけるものは日記に記載された後に捨てられたことでしょう。残っていたとすればわりと重要な物。例えば
回顧録などを出版する際、資料として使えるようなものだったのではないでしょうか。
つまり、別紙メモの束は、後に公開する為の資料として残しておいたもの。と言う風に筆者は考えます。
■徳川侍従長との会談
靖国問題に関して、昭和天皇の発言を公にすることはできませんが、その側近である徳川氏となんらかの話しがあったとしても不思議ではありません。ちなみに同年の4月12日に徳川氏が勇退会見をしているようですがその内容は現在の所不明です。この会見の関係資料が出てくれば一気に解決する可能性もあります。
徳川発言説を裏付けるのは「その上」という部分。

松岡氏も白鳥氏もA級戦犯ですから「その上」というのは妙ですね。ちょっと意味がわかりません。これが徳川氏の発言だとすると理解可能となります。
徳川氏の回顧録「侍従長の遺言」より
私は東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいじゃないか、と言ったんです。長野修身さんも死刑になっていないけれど、まあ長野さんは軍人だから。
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お分かりですね。「その上」というのは、軍人でもなく死刑にもなっていない松岡氏や白鳥氏を、靖国神社に合祀するのは納得できないという意味なのです。
■メモを補記
(筆者が補記したもの)
私は或る時に、A級戦犯が合祀されたことを聞いて驚いた。
その上、松岡や白鳥のように軍人でもないし死刑にもなっていないものまで一緒に合祀するとは。
筑波は合祀に慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか易々と合祀してしまった。
松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずではないかと思っている。
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こうして補記すると、筑波氏の評価を含めて100%徳川氏の見解そのままと言ってよいでしょう。
■日経新聞の暴走
ということで一週間に渡って、「富田メモ・偽造説」を検証してみました。
捏造説の疑問点にはそれなりに説明がついていると思います。
にわかには信じがたい話ですが、史料を比較していくと「メモは偽造」という説にたどりつくと筆者は思います。
富田メモの問題というのは、歴史学的な検証が行われないまま、「メモは本物」「天皇の発言」「語られている内容は事実である」という三点が協調されていることです。
歴史学的には、
日記や手帳、メモ用紙の束も含めて「富田史料」というくくりになります。今回問題になっているのは断片的なメモであって、仮に富田氏が書いたものだとしても日記や手帳、その他の資料とつき合わせた上で発表するべき性格のものでした。なぜならば富田氏が「陛下の言葉を偽造する」可能性もあるからです。
こういった検証を歴史学では「史料批判」といいます。
石器を自分で埋めて、自分で掘り起こした「ゴッドハンド藤村」という人間がいました。彼が悪いのは当然ですが、発掘された石器を十分に検証せず、捏造を見抜けなかった学会により大きな責任があると言えるでしょう。
偽造史料など珍しくありませんし、今回のように政治的思惑が絡むならなおさらです。先入観を捨て冷静な検証が必要とされています。
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