中村玄道(なかむらげんどう)はしばらく言葉を切って、臆病(おくびょう)らしい眼を畳(たたみ)へ落した。突然こんな話を聞かされた私も、いよいよ広い座敷の春寒(はるさむ)が襟元まで押寄せたような心もちがして、「成程(なるほど)」と云う元気さえ起らなかった。
部屋の中には、ただ、ランプの油を吸い上げる音がした。それから机の上に載せた私の懐中時計が、細かく時を刻む音がした。と思うとまたその中で、床の間の楊柳観音(ようりゅうかんのん)が身動きをしたかと思うほど、かすかな吐息(といき)をつく音がした。
私は悸(おび)えた眼を挙げて、悄然と坐っている相手の姿を見守った。吐息をしたのは彼だろうか。それとも私自身だろうか。――が、その疑問が解けない内に、中村玄道はやはり低い声で、徐(おもむろ)に話を続け出した。
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申すまでもなく私は、妻の最期を悲しみました。そればかりか、時としては、校長始め同僚から、親切な同情の言葉を受けて、人前も恥じず涙さえ流した事がございました。が、私があの地震の中で、妻を殺したと云う事だけは、妙に口へ出して云う事が出来なかったのでございます。
「生(い)きながら火に焼かれるよりはと思って、私が手にかけて殺して来ました。」――これだけの事を口外したからと云って、何も私が監獄へ送られる次第でもございますまい。いや、むしろそのために世間は一層私に同情してくれたのに相違ございません。それがどう云うものか、云おうとするとたちまち喉元(のどもと)にこびりついて、一言(ひとこと)も舌が動かなくなってしまうのでございます。
当時の私はその原因が、全く私の臆病に根ざしているのだと思いました。が、実は単に臆病と云うよりも、もっと深い所に潜んでいる原因があったのでございます。しかしその原因は、私に再婚の話が起って、いよいよもう一度新生涯へはいろうと云う間際までは、私自身にもわかりませんでした。そうしてそれがわかった時、私はもう二度と人並の生活を送る資格のない、憐むべき精神上の敗残者になるよりほかはなかったのでございます。
再婚の話を私に持ち出したのは、小夜(さよ)の親許(おやもと)になっていた校長で、これが純粋に私のためを計った結果だと申す事は私にもよく呑み込めました。また実際その頃はもうあの大地震(おおじしん)があってから、かれこれ一年あまり経った時分で、校長がこの問題を切り出した以前にも、内々同じような相談を持ちかけて私の口裏(くちうら)を引いて見るものが一度ならずあったのでございます。所が校長の話を聞いて見ますと、意外な事にはその縁談の相手と云うのが、唯今先生のいらっしゃる、このN家の二番娘で、当時私が学校以外にも、時々出稽古(でげいこ)の面倒を見てやった尋常四年生の長男の姉だったろうではございませんか。勿論私は一応辞退しました。第一教員の私と資産家のN家とでは格段に身分も違いますし、家庭教師と云う関係上、結婚までには何か曰(いわ)くがあったろうなどと、痛くない腹を探(さぐ)られるのも面白くないと思ったからでございます。同時にまた私の進まなかった理由の後(うしろ)には、去る者は日に疎(うと)しで、以前ほど悲しい記憶はなかったまでも、私自身打ち殺した小夜(さよ)の面影が、箒星(ほうきぼし)の尾のようにぼんやり纏(まつ)わっていたのに相違ございません。
が、校長は十分私の心もちを汲んでくれた上で、私くらいの年輩の者が今後独身生活を続けるのは困難だと云う事、しかも今度の縁談は先方から達(た)っての所望(しょもう)だと云う事、校長自身が進んで媒酌(ばいしゃく)の労を執(と)る以上、悪評などが立つ謂(い)われのないと云う事、そのほか日頃私の希望している東京遊学のごときも、結婚した暁には大いに便宜があるだろうと云う事――そう事をいろいろ並べ立てて、根気よく私を説きました。こう云われて見ますと、私も無下(むげ)には断ってしまう訳には参りません。そこへ相手の娘と申しますのは、評判の美人でございましたし、その上御恥しい次第ではございますが、N家の資産にも目がくれましたので、校長に勧められるのも度重なって参りますと、いつか「熟考して見ましょう。」が「いずれ年でも変りましたら。」などと、だんだん軟化致し始めました。そうしてその年の変った明治二十六年の初夏には、いよいよ秋になったら式を挙げると云う運びさえついてしまったのでございます。
するとその話がきまった頃から、妙に私は気が鬱(うつ)して、自分ながら不思議に思うほど、何をするにも昔のような元気がなくなってしまいました。たとえば学校へ参りましても、教員室の机に倚(よ)り懸(かか)りながら、ぼんやり何かに思い耽って、授業の開始を知らせる板木(ばんぎ)の音さえ、聞き落してしまうような事が度々あるのでございます。その癖何が気になるのかと申しますと、それは私にもはっきりとは見極めをつける事が出来ません。ただ、頭の中の歯車がどこかしっくり合わないような――しかもそのしっくり合わない向うには、私の自覚を超越した秘密が蟠(わだかま)っているような、気味の悪い心もちがするのでございます。
それがざっと二月(ふたつき)ばかり続いてからの事でございましたろう。ちょうど暑中休暇になった当座で、ある夕方私が散歩かたがた、本願寺別院(ほんがんじべついん)の裏手にある本屋の店先を覗いて見ますと、その頃評判の高かった風俗画報と申す雑誌が五六冊、夜窓鬼談(やそうきだん)や月耕漫画(げっこうまんが)などと一しょに、石版刷の表紙を並べて居りました。そこで店先に佇(たたず)みながら、何気なくその風俗画報を一冊手にとって見ますと、表紙に家が倒れたり火事が始ったりしている画があって、そこへ二行に「明治廿四年十一月三十日発行、十月廿八日震災記聞」と大きく刷ってあるのでございます。それを見た時、私は急に胸がはずみ出しました。私の耳もとでは誰かが嬉しそうに嘲笑(あざわら)いながら、「それだ。それだ。」と囁くような心もちさえ致します。私はまだ火をともさない店先の薄明りで、慌(あわただ)しく表紙をはぐって見ました。するとまっ先に一家の老若(ろうにゃく)が、落ちて来た梁(はり)に打ちひしがれて惨死(ざんし)を遂げる画が出て居ります。それから土地が二つに裂けて、足を過った女子供を呑んでいる画が出て居ります。それから――一々数え立てるまでもございませんが、その時その風俗画報は、二年以前の大地震(おおじしん)の光景を再び私の眼の前へ展開してくれたのでございます。長良川(ながらがわ)鉄橋陥落の図、尾張(おわり)紡績会社破壊の図、第三師団兵士屍体発掘(したいはっくつ)の図、愛知病院負傷者救護の図――そう云う凄惨な画は次から次と、あの呪わしい当時の記憶の中へ私を引きこんで参りました。私は眼がうるみました。体も震え始めました。苦痛とも歓喜ともつかない感情は、用捨(ようしゃ)なく私の精神を蕩漾(とうよう)させてしまいます。そうして最後の一枚の画が私の眼の前に開かれた時――私は今でもその時の驚愕がありあり心に残って居ります。それは落ちて来た梁(はり)に腰を打たれて、一人の女が無惨(むざん)にも悶え苦しんでいる画でございました。その梁の横(よこた)わった向うには、黒煙(くろけむり)が濛々と巻き上って、朱(しゅ)を撥(はじ)いた火の粉さえ乱れ飛んでいるではございませんか。これが私の妻でなくて誰でしょう。妻の最期でなくて何でしょう。私は危く風俗画報を手から落そうと致しました。危く声を挙げて叫ぼうと致しました。しかもその途端に一層私を悸(おび)えさせたのは、突然あたりが赤々と明(あかる)くなって、火事を想わせるような煙の(におい)がぷんと鼻を打った事でございます。私は強いて心を押し鎮めながら、風俗画報を下へ置いて、きょろきょろ店先を見廻しました。店先ではちょうど小僧が吊(つり)ランプへ火をとぼして、夕暗の流れている往来へ、まだ煙の立つ燐寸殻(マッチがら)を捨てている所だったのでございます。
それ以来、私は、前よりもさらに幽鬱な人間になってしまいました。今まで私を脅(おびやか)したのはただ何とも知れない不安な心もちでございましたが、その後はある疑惑(ぎわく)が私の頭の中に蟠(わだかま)って、日夜を問わず私を責め虐(さいな)むのでございます。と申しますのは、あの大地震(おおじしん)の時私が妻を殺したのは、果して已(や)むを得なかったのだろうか。――もう一層露骨に申しますと、私は妻を殺したのは、始から殺したい心があって殺したのではなかったろうか。大地震はただ私のために機会を与えたのではなかったろうか、――こう云う疑惑でございました。私は勿論この疑惑の前に、何度思い切って「否(いな)、否。」と答えた事だかわかりません。が、本屋の店先で私の耳に「それだ。それだ。」と囁いた何物かは、その度にまた嘲笑(あざわら)って、「では何故(なぜ)お前は妻を殺した事を口外する事が出来なかったのだ。」と、問い詰(つめ)るのでございます。私はその事実に思い当ると、必ずぎくりと致しました。ああ、何故私は妻を殺したなら殺したと云い放てなかったのでございましょう。何故今日(きょう)までひた隠しに、それほどの恐しい経験を隠して居ったのでございましょう。
しかもその際私の記憶へ鮮(あざやか)に生き返って来たものは、当時の私が妻の小夜(さよ)を内心憎んでいたと云う、忌(いま)わしい事実でございます。これは恥を御話しなければ、ちと御会得(ごえとく)が参らないかも存じませんが、妻は不幸にも肉体的に欠陥のある女でございました。(以下八十二行省略)………そこで私はその時までは、覚束(おぼつか)ないながら私の道徳感情がともかくも勝利を博したものと信じて居ったのでございます。が、あの大地震のような凶変(きょうへん)が起って、一切の社会的束縛が地上から姿を隠した時、どうしてそれと共に私の道徳感情も亀裂(きれつ)を生じなかったと申せましょう。どうして私の利己心も火の手を揚げなかったと申せましょう。私はここに立ち至ってやはり妻を殺したのは、殺すために殺したのではなかったろうかと云う、疑惑を認めずには居られませんでした。私がいよいよ幽鬱になったのは、むしろ自然の数(すう)とでも申すべきものだったのでございます。
しかしまだ私には、「あの場合妻を殺さなかったにしても、妻は必ず火事のために焼け死んだのに相違ない。そうすれば何も妻を殺したのが、特に自分の罪悪だとは云われない筈だ。」と云う一条の血路がございました。所がある日、もう季節が真夏から残暑へ振り変って、学校が始まって居た頃でございますが、私ども教員が一同教員室の卓子(テエブル)を囲んで、番茶を飲みながら、他曖(たわい)もない雑談を交して居りますと、どう云う時の拍子だったか、話題がまたあの二年以前の大地震に落ちた事がございます。私はその時も独り口を噤(つぐ)んだぎりで、同僚(どうりょう)の話を聞くともなく聞き流して居りましたが、本願寺の別院の屋根が落ちた話、船町(ふなまち)の堤防が崩れた話、俵町(たわらまち)の往来の土が裂けた話――とそれからそれへ話がはずみましたが、やがて一人の教員が申しますには、中町(なかまち)とかの備後屋(びんごや)と云う酒屋の女房は、一旦梁(はり)の下敷になって、身動きも碌(ろく)に出来なかったのが、その内に火事が始って、梁も幸(さいわい)焼け折れたものだから、やっと命だけは拾ったと、こう云うのでございます。私はそれを聞いた時に、俄(にわか)に目の前が暗くなって、そのまましばらくは呼吸さえも止るような心地が致しました。また実際その間は、失心したも同様な姿だったのでございましょう。ようやく我に返って見ますと、同僚は急に私の顔色が変って、椅子ごと倒れそうになったのに驚きながら、皆私のまわりへ集って、水を飲ませるやら薬をくれるやら、大騒ぎを致して居りました。が、私はその同僚に礼を云う余裕もないほど、頭の中はあの恐しい疑惑の塊(かたまり)で一ぱいになっていたのでございます。私はやはり妻を殺すために殺したのではなかったろうか。たとい梁(はり)に圧(お)されていても、万一命が助かるのを恐れて、打ち殺したのではなかったろうか。もしあのまま殺さないで置いたなら今の備後屋(びんごや)の女房の話のように、私の妻もどんな機会で九死(きゅうし)に一生(いっしょう)を得たかも知れない。それを私は情無(なさけな)く、瓦の一撃で殺してしまった――そう思った時の私の苦しさは、ひとえに先生の御推察を仰ぐほかはございません。私はその苦しみの中で、せめてはN家との縁談を断ってでも、幾分一身を潔(きよ)くしようと決心したのでございます。
ところがいよいよその運びをつけると云う段になりますと、折角の私の決心は未練にもまた鈍り出しました。何しろ近々結婚式を挙げようと云う間際になって、突然破談にしたいと申すのでございますから、あの大地震の時に私が妻を殺害(せつがい)した顛末(てんまつ)は元より、これまでの私の苦しい心中も一切打ち明けなければなりますまい。それが小心な私には、いざと云う場合に立ち至ると、いかに自(みずか)ら鞭撻しても、断行する勇気が出なかったのでございます。私は何度となく腑甲斐(ふがい)ない私自身を責めました。が、徒(いたずら)に責めるばかりで、何一つ然るべき処置も取らない内に、残暑はまた朝寒(あささむ)に移り変って、とうとう所謂(いわゆる)華燭(かしょく)の典を挙げる日も、目前に迫ったではございませんか。
私はもうその頃には、だれとも滅多に口を利(き)かないほど、沈み切った人間になって居りました。結婚を延期したらと注意した同僚も、一人や二人ではございません。医者に見て貰ったらと云う忠告も、三度まで校長から受けました。が、当時の私にはそう云う親切な言葉の手前、外見だけでも健康を顧慮しようと云う気力さえすでになかったのでございます。と同時にまたその連中の心配を利用して、病気を口実に結婚を延期するのも、今となっては意気地(いくじ)のない姑息手段(こそくしゅだん)としか思われませんでした。しかも一方ではN家の主人などが、私の気鬱(きうつ)の原因を独身生活の影響だとでも感違いをしたのでございましょう。一日も早く結婚しろと頻(しきり)に主張しますので、日こそ違いますが二年前(ぜん)にあの大地震のあった十月、いよいよ私はN家の本邸で結婚式を挙げる事になりました。連日の心労に憔悴(しょうすい)し切った私が、花婿(はなむこ)らしい紋服を着用して、いかめしく金屏風を立てめぐらした広間へ案内された時、どれほど私は今日(こんにち)の私を恥しく思ったでございましょう。私はまるで人目を偸(ぬす)んで、大罪悪を働こうとしている悪漢のような気が致しました。いや、ような気ではございません。実際私は殺人の罪悪をぬり隠して、N家の娘と資産とを一時盗もうと企てている人非人(にんぴにん)なのでございます。私は顔が熱くなって参りました。胸が苦しくなって参りました。出来るならこの場で、私が妻を殺した一条を逐一(ちくいち)白状してしまいたい。――そんな気がまるで嵐のように、烈しく私の頭の中を駈けめぐり始めました。するとその時、私の着座している前の畳へ、夢のように白羽二重(しろはぶたえ)の足袋が現れました。続いて仄(ほの)かな波の空に松と鶴とが霞んでいる裾模様が見えました。それから錦襴(きんらん)の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲(べっこう)の櫛笄(くしこうがい)が重そうに光っている高島田が眼にはいった時、私はほとんど息がつまるほど、絶対絶命[#「絶対絶命」はママ]な恐怖に圧倒されて、思わず両手を畳へつくと、『私は人殺しです。極重悪(ごくじゅうあく)の罪人です』と、必死な声を挙げてしまいました。………
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中村玄道(なかむらげんどう)はこう語り終ると、しばらくじっと私の顔を見つめていたが、やがて口もとに無理な微笑を浮べながら、
「その以後の事は申し上げるまでもございますまい。が、ただ一つ御耳に入れて置きたいのは、当日限り私は狂人と云う名前を負わされて、憐むべき余生(よせい)を送らなければならなくなった事でございます。果して私が狂人かどうか、そのような事は一切先生の御判断に御任(おま)かせ致しましょう。しかしたとい狂人でございましても、私を狂人に致したものは、やはり我々人間の心の底に潜んでいる怪物のせいではございますまいか。その怪物が居ります限り、今日(きょう)私を狂人と嘲笑(あざわら)っている連中でさえ、明日(あす)はまた私と同様な狂人にならないものでもございません。――とまあ私は考えて居(お)るのでございますが、いかがなものでございましょう。」
ランプは相不変(あいかわらず)私とこの無気味(ぶきみ)な客との間に、春寒い焔を動かしていた。私は楊柳観音(ようりゅうかんのん)を後(うしろ)にしたまま、相手の指の一本ないのさえ問い質(ただ)して見る気力もなく、黙然(もくねん)と坐っているよりほかはなかった。
(大正八年六月)
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底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月8日公開
2004年3月7日修正
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