五 アラビア海から紅海へ
四月二十日
昨夜九時ごろにラカジーブ島の燈台を右舷(うげん)に見た。これからアデンまで四五日はもう陸地を見ないだろうと思うと、心細いよりはむしろゆっくり落ちついたような心持ちがした。朝食後甲板で読書していたら眠くなったので室へおりて寝ようとすると、食堂でだれかがソプラノでのべつに唱歌をやっている。芸人だとかいうオランダ人の一行らしい。この声が耳についてなかなか寝られなかった。それで昼食後に少し寝たいと思うと、今度はまたテノルの唱歌で睡眠を妨げられた。
午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た。それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし、手すりにも旗を掛け連ねた。赤、青、緑、いろいろの電球をズックの天井の下につるし並べてイルミネーションをやる。一等室のほうからも燕尾服(えんびふく)の連中がだんだんにやってくる。女も美しい軽羅(けいら)を着てベンチへ居並ぶ。デッキへは蝋(ろう)かなにかの粉がふりまかれる。楽隊も出て来てハッチの上に陣取った。時刻が来ると三々五々踊り始めた。少し風があるのでスカーフを頬(ほお)かぶりにしている女もある。四つの足が一組になっていろいろ入り乱れるのを不思議に思って見守るのであった。横浜(よこはま)から乗って来た英人のCがオランダの女優のいちばん若く美しいのと踊っていた。なんとなく不格好に、しかし非常に熱心に踊っているのがおかしいようでもあったが、ハイカラでうまく踊る他の多くのダンディよりこのほうが自分にはいい気持ちを与えた。舞踏というものは始めて見たが、なるほどセンシュアルな暗示に富んだものである。これを引き去ったらあとには何物が残るだろうと思ったりした。
反対の側のデッキには、舞踏などまるで問題にしないで談笑している一組もあった。
四月二十二日
夜九時から甲板で音楽会をやった。一人前五十ペンスずつ集めてロイド会社の船員の寡婦や孤児にやるのだという。
英国人で五十歳ぐらいの背の高い肥(ふと)ったそしてあまり品のよくないブラムフィールド君が独唱をやると、その歌はだれでも知っているのだと見えて聴衆がみんないっしょに歌い出してせっかくの独唱(ソロ)はさんざんに押しつぶされてしまった。おかしくもあったが気の毒でもあった。なんだかドイツ人の群集の中で英国人のある特性そのものが嘲笑(ちょうしょう)の目的物になっているような気がした。そしてその特性は自分もあまり好かないものであるのにかかわらず、この時はなんだか聴衆の悪じゃれを不愉快に感じた。それでもやっぱりおかしい事はおかしかった。ブラムフィールドという名前がこの人とこの小事件とになんとなく調和していると思った。
自分の室付きのボーイの兄のマクスが皆から無理にすすめられて演奏台に立った。美しいテノルで歌い出すと、今まで謙遜(けんそん)であった彼とは別人のように、燃えるような目を輝かせ肩をそびやかして勇ましい一曲を歌った。聴衆は盛んな拍手をあびせかけて幾度か彼を壇上に呼び上げた。
(この時から一年余り後にハンブルヒである大きいカフェーにはいったら、そこのオーケストラの中でバイオリンをひいているマクスを見いだした。声をかけたいと思ったがおおぜいの客の眼前に気がひけてついそのまま別れてしまった。彼の顔はなんだか少しやつれていたような気がした。)
四月二十三日
朝食後に出て見ると左舷(さげん)に白く光った陸地が見える。ちょっと見ると雪ででもおおわれているようであるが、無論雪ではなくて白い砂か土だろう。珍しい景色である。なんだかわれわれの「この世」とは別の世界の一角を望むような心持ちがする。「陸地の幽霊」とでもいいたいような気がする。Weird という英語のほかに適当な形容詞は思いつかなかった。……あれがソコトラの島だろうと言っていた。
朝九時アデンに着いた。この半島も向かいの小島もゴシック建築のようにとがり立った岩山である。草一本の緑も見えないようである。やや平坦(へいたん)なほうの内地は一面に暑そうな靄(もや)のようなものが立ちこめて、その奥に波のように起伏した砂漠(さばく)があるらしい。この気味のわるい靄(もや)の中からいろいろの奇怪な伝説が生まれたのだろう。
土人がいろいろの物を売りに来る。駝鳥(だちょう)の卵や羽毛、羽扇、藁細工(わらざいく)のかご、貝や珊瑚(さんご)の首飾り、かもしかの角(つの)、鱶(ふか)の顎骨(がくこつ)などで、いずれも相当に高い値段である。
船のまわりをかなり大きな鱶が一匹泳いでいる。その腹の下を小さい魚が二尾お供のようについて泳いでいる。あれがパイロットフィッシュだとだれかが教える。オランダ人で伝法肌(デスペラド)といったような男がシェンケから大きな釣(つ)り針(ばり)を借りて来てこれに肉片をさし、親指ほどの麻繩(あさなわ)のさきに結びつけ、浮標にはライフブイを縛りつけて舷側(げんそく)から投げ込んだ。鱶(ふか)はつい近くまで来てもいっこう気がつかないようなふうでゆうゆうと泳いで行く。
自分と並んで見ていた男が、けさ早く鯨の潮を吹いているのに会ったと話していた。鱶(ふか)はいつまでも釣れそうにはなかった。
土人が二人、甲板で手拍子足拍子をとって踊った。土人の中には大きな石鹸(せっけん)のような格好をした琥珀(こはく)を二つ、布切れに貫ぬいたのを首にかけたのがいた。やはり土人の巡査が、赤帽を着て足にはサンダルをはき、鞭(むち)をもって甲板に押し上がろうとする商人を制していた。
一時に出帆。昨夜電扇が止まって暑くて寝られなかったので五時半ごろまで寝た。夜九時にバベルマンデブの海峡を過ぎた。熱帯とも思われぬような涼しい風が吹いて船室(キャビン)の中も涼しかった。
四月二十五日
十二使徒という名の島を右舷に見た。それを通り越すと香炉のふたのような形の島が見えたが名はわからなかった。
一等客でコロンボから乗った英国人がけさ投身したと話していた。妻と三人の子供をなくしてひとりさびしく故国へ帰る道であったそうな。
四月二十六日
午後T氏がわざわざ用意して手荷物の中に入れて来た煎茶器(せんちゃき)を出して洗ったりふいたりした。そしてハース氏夫妻、神戸(こうべ)からいっしょのアメリカの老嬢二人、それに一等のN氏とを食堂に招待してお茶を入れた。菓子はウェーファースとビスケットであった。
(大正九年十月、渋柿)

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