アインシュタイン「見やすいとか見やすくないとかいう事は時代とともに変るもので、云わば時の函数であります。ガリレーの時代の人には彼の力学はよほど見やすくないものだったでしょう。いわゆる見やすい観念などと称するものは、例の『常識』『健全な理知』(gesunder Menschenverstand)と称するものと同様にずいぶん穴だらけなものかと思います。」
この返答で聴衆が笑い出したと伝えられている。この討論は到底相撲にならないで終結したらしい。
今年は米国へ招かれて講演に行った。その帰りに英国でも講演をやった。その当時の彼の地の新聞は彼の風采と講演ぶりを次のように伝えている。
「……。ちょっと見たところでは別に堂々とした様子などはない。中背で、肥っていて、がっしりしている。四十三にしてはふけて見える。皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの梳(くしけず)らない団塊である。額には皺(しわ)、眼のまわりには疲労の線条を印している。しかし眼それ自身は磁石のように牽(ひ)き付ける眼である。それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚の奥に隠れたあるものを見透す詩人創造者の眼である。眼の中には異様な光がある。どうしても自分の心の内部に生活している人の眼である。」
「彼が壇上に立つと聴衆はもうすぐに彼の力を感ずる。ドイツ語がわかる分らぬは問題でない。ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。」
「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜(けんそん)で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を組合したり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また指の端を唇に触れたりする。しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬(またた)く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。」
「不思議な、人を牽(ひ)き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とでもいうような様子があるが、彼は実際にそうである。数学が出来ると同じ程度にヴァイオリンが出来る。充分な情緒と了解をもってモザルト、シューマン、バッハなどを演奏する……。」
私が初めてアインシュタインの写真を見たのはK君のところでであった。その時に私達は「この顔は夢を見る芸術家の顔だ」というような事を話し合った。ところがこの英国の新聞記者も同じような事を云っているのを見ると、この印象はいくらか共通なものかもしれない。実際彼のような破天荒の仕事は、「夢」を見ない種類の人には思い付きそうに思われない。しかしただ夢を見るだけでは物にならない。夢の国に論理の橋を架けたのが彼の仕事であった。
アメリカのスロッソンという新聞記者のかいた書物の口絵にある写真はちょっとちがった感じを与える。どこか皮肉な、今にも例の人を笑わせる顔をしそうなところがある。また最近にタイムス週刊の画報に出た、彼がキングス・カレッジで講演をしている横顔もちょっと変っている。顔面に対してかなり大きな角度をして突き出た三角形の大きな鼻が眼に付く。
アインシュタインは「芸術から受けるような精神的幸福は他の方面からはとても得られないものだ」と人に話したそうである。ともかくも彼は芸術を馬鹿にしない種類の科学者である。アインシュタインの芸術方面における趣味の中で最も顕著なものは音楽である。彼の弾くヴァイオリンが一人前のものだという事は定評であるらしい。かなりテヒニークの六(むつ)ヶしいブラームスのものでも鮮やかに弾きこなすそうである。技術ばかりでなくて相当な理解をもった芸術的の演奏が出来るらしい。
それから、子供の時に唱歌をやったと同じように、時々ピアノの鍵盤の前に坐って即興的のファンタジーをやるのが人知れぬ楽しみの一つだそうである。この話を聞くと私は何となくボルツマンを思い出す。しかしボルツマンは陰気でアインシュタインは明るい。
音楽の中では古典的なものを好むそうである。特にゴチックの建築に譬(たと)えられるバッハのものを彼が好むのは偶然ではないかもしれない。ベートーヴェンの作品でも大きなシンフォニーなどより、むしろカンマームジークの類を好むという事や、ショパン、シューマンその他浪漫派(ろうまんは)の作者や、またワグナーその他の楽劇にあまり同情しない事なども、何となく彼の面目を想像させる。
絵画には全く無関心だそうである。四元の世界を眺めている彼には二元の芸術はあるいはあまりに児戯に近いかもしれない。万象を時と空間の要素に切りつめた彼には色彩の美しさなどはあまりに空虚な幻に過ぎないかもしれない。
三元的な彫刻には多少の同情がある。特に建築の美には歎美を惜しまないそうである。
そう云えば音楽はあらゆる芸術の中で唯一の四元的のものとも云われない事はない。この芸術には一種の「運動」が本質的なものである。ただその時とともに運動する「もの」と空間とが物質的でないだけである。
文学にも無関心ではないそうである。ただ忙しい彼には沢山色々のものを読む暇がないのであろう。シェークスピアを尊敬してゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー*、こんな名前が好きな方の側に、ゾラやイブセンなどが好かない方の側に挙げられている。この名簿も色々の意味で吾々には面白く感じられる。
* ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って小宮君に聞いてみると、この人(一八一九―一八九〇)はスイスチューリヒの生れで、描写の細かい、しかし抒情的気分に富んだ写実小説家だそうである。
哲学者の仕事に対する彼の態度は想像するに難くない。ロックやヒュームやカントには多少の耳を借しても、ヘーゲルやフィヒテは問題にならないらしい。これはそうありそうな事である。とにかく将来の哲学者は彼から多くを学ばねばなるまい。ショーペンハウアーとニーチェは文学者として推賞するのだそうである。しかしニーチェはあんまりギラギラしている(glitzernd)と云っている。
彼が一種の煙霞癖(えんかへき)をもっている事は少年時代のイタリア旅行から芽を出しているように見える。しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追うて、汽車の中では居眠りする亜類のではなくて、何の目的もなく野に山に海浜に彷徨(ほうこう)するのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう処をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の脳裡(のうり)に起っているかという事は誰にも分らない。
勝負事には一切見向かない。蒐集癖も皆無である。学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないと云われている。尤も彼のような根本的に新しい仕事に参考になる文献の数は比較的極めて少数である事は当然である。いわゆるオーソリティは彼自身の頭蓋骨以外にはどこにも居ないのである。
彼の日常生活はおそらく質素なものであろう。学者の中に折々見受けるような金銭に無関心な人ではないらしい。彼の著者の翻訳者には印税のかなりな分け前を要求して来るというような噂も聞いた。多くの日本人には多少変な感じもするが、ドイツ人という者を知っている人には別にそう不思議とは思われない。特に彼の人種の事までも取り立てて考えるほどの事ではないと思われる。
夜はよく眠るそうである。神経のいらいらした者が、彼のような仕事をして、そしてそれが成効に近づいたとすればかなり興奮するにちがいない。勝手に仕事を途中で中止してのんきに安眠するという事は存外六ケしい事であるに相違ない。しかし彼は適当な時にさっさと切り上げて床につく、そして仕事の事は全く忘れて安眠が出来ると彼自身人に話している。ただ一番最初の相対原理に取り付いた時だけはさすがにそうはゆかなかったらしい。幾日も喪心者のようになって彷徨したと云っている。一つは年の若かったせいでもあろうが、その時の心持はおそらくただ選ばれたごく少数の学者芸術家あるいは宗教家にして始めて味わい得られる種類のものであったろう。

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