二
アルベルト・アインシュタインは一八七九年三月の出生である。日本ならば明治十二年卯歳の生れで数え年四十三(大正十年)になる訳である。生れた場所は南ドイツでドナウの流れに沿うた小都市ウルムである。今のドイツで一番高いゴチックの寺塔のあるという外には格別世界に誇るべき何物をも有(も)たないらしいこの市名は偶然にこの科学者の出現と結び付けられる事になった。この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は遺憾ながら極めて少ない。ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたという事である。その時の印象が彼の後年の仕事にある影響を与えたという事が彼自身の口から伝わっている。
丁度この頃、彼の父は家族を挙げてミュンヘンに移転した。今度の家は前のせまくるしい住居とちがって広い庭園に囲まれていたので、そこで初めて自由に接することの出来た自然界の印象も彼の生涯に決して無意味ではなかったに相違ない。
彼の家族にユダヤ人種の血が流れているという事は注目すべき事である。後年の彼の仕事や、社会人生観には、この事実と思い合せて初めて了解される点が少なくないように思う。それはとにかく彼がミュンヘンの小学で受けたローマカトリックの教義と家庭におけるユダヤ教の教義との相対的な矛盾――因襲的な独断と独断の背馳(はいち)が彼の幼い心にどのような反応を起させたか、これも本人に聞いてみたい問題である。
この時代の彼の外観には何らの鋭い天才の閃きは見えなかった。ものを云う事を覚えるのが普通より遅く、そのために両親が心配したくらいで、大きくなってもやはり口重であった。八、九歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間外れの観があった。ただその頃から真と正義に対する極端な偏執が目に立った。それで人々は「馬鹿正直(ビーダーマイアー)」という渾名(あだな)を彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事になろうとは、誰も夢にも考えなかった事であろう。
音楽に対する嗜好は早くから眼覚めていた。独りで讃美歌のようなものを作って、独りでこっそり歌っていたが、恥ずかしがって両親にもそれは隠して聞かせなかったそうである。腕白な遊戯などから遠ざかった独りぼっちの子供の内省的な傾向がここにも認められる。
後年まで彼につきまとったユダヤ人に対するショーヴィニズムの迫害は、もうこの頃から彼の幼い心に小さな波風を立て初めたらしい。そしてその不正義に対する反抗心が彼の性格に何かの痕跡を残さない訳には行かなかったろうと思われる。「ユダヤ人はその職業上の環境や民族の過去のために、人から信用されるという経験に乏しい。この点に関してユダヤ人の学者に注目して見るがいい。彼等は論理というものに力瘤(ちからこぶ)を入れる。すなわち理法によって他の承諾を強要する。民族的反感からは信用したくない人でも、論理の前には屈伏しなければならない事を知っているから。」こう云ったニーチェのにがにがしい言葉が今更に強く吾々の耳に響くように思われる。
彼の学校成績はあまりよくなかった。特に言語などを機械的に暗記する事の下手な彼には当時の軍隊式な詰め込み教育は工合が悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出し初めた。計算は上手でなくても考え方が非常に巧妙であった。ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤーコブ・アインシュタインに、代数学とは一体どんなものかと質問した事があった。その時に伯父さんが「代数というのは、あれは不精もののずるい計算術である。知らない答をXと名づけて、そしてそれを知っているような顔をして取扱って、それと知っているものとの関係式を書く。そこからこのXを定めるという方法だ」と云って聞かせた。この剽軽(ひょうきん)な、しかし要を得た説明は子供の頭に眠っている未知の代数学を呼び覚ますには充分であった。それから色々の代数の問題はひとりで楽に解けるようになった。始めて、幾何学のピタゴラスの定理に打(ぶ)つかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、おしまいには遂にその証明に成効した。論理的に確実なある物を捕える喜びは、もうこの頃から彼のうら若い頭に滲み渡っていた。数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無関係に驚くべき速度で増大した。十五歳の時にはもう大学に入れるだけの実力があるという事を係りの教師が宣言した。
しかし中等学校を卒業しないうちに学校生活が一時中断するようになったというのは、彼の家族一同がイタリアへ移住する事になったのである。彼等はミランに落着いた。そこでしばらく自由の身になった少年はよく旅行をした。ある時は単身でアペニンを越えて漂浪したりした。間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素養が足りなかったので、しばらくアーラウの実科中学にはいっていた。わずかに十六歳の少年は既にこの時分から「運動体の光学」に眼を付け初めていたという事である。後年世界を驚かした仕事はもうこの時から双葉(ふたば)を出し初めていたのである。
彼の公人としての生涯の望みは教員になる事であった。それでチューリヒのポリテキニクムの師範科のような部門へ入学して十七歳から二十一歳まで勉強した。卒業後彼をどこかの大学の助手にでも世話しようとする者もあったが、国籍や人種の問題が邪魔になって思わしい口が得られなかった。しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師を勤めながら静かに深く物理学を勉強した。かなりに貧しい暮しをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生があって、その後一九〇三年にこの人と結婚したが数年後に離婚した。ずっと後に従妹(いとこ)のエルゼ・アインシュタインを迎えて幸福な家庭を作っているという事である。
一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得てやっと公職に就く資格が出来た。同窓の友グロスマンの周旋(しゅうせん)で特許局の技師となって、そこに一九〇二年から一九〇九年まで勤めていた。彼のような抽象に長じた理論家が極めて卑近な発明の審査をやっていたという事は面白い事である。彼自身の言葉によるとこの職務にも相当な興味をもって働いていたようである。
一九〇五年になって彼は永い間の研究の結果を発表し始めた。頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いで溢れ出した。『物理年鑑』に出した論文だけでも四つでその外に学位論文をも書いた。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。
ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇(ちゅうちょ)していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘(しょうへい)した。これが一九〇九年、彼が三十一歳の時である。特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼のとっては意義の深いものであったに相違ないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒのポリテキニクムの教授となった。大戦の始まった一九一四年の春ベルリンに移ってそこで仕事を大成したのである。
ベルリン大学にける彼の聴講生の数は従来のレコードを破っている。一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義をすまして廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。宅(うち)へ帰ると世界中の学者や素人(しろうと)から色々の質問や註文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別厭(いや)な顔をしないで気永に親切に誰にでも満足を与えているようである。
彼の名声が急に揚がる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥という日本人にはちょっと分らない、しかし多くのドイツ人には分りやすい原理に、幾分は別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥同盟のようなものが出来た。勿論大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人も交じっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾演説をやって無闇(むやみ)な悪口を並べた。中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさすがに直接の人身攻撃はやらないで相対原理の批判のような事を述べたが、それはほとんど科学的には無価値なものであった。要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終ってしまった。気の永いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると云い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献の偉大な事を保証した。またアインシュタインは進まなかったらしいのを、すすめて自身の弁明書を書かせ、これを同じ新聞に掲げた。その短い文章は例の通りキビキビとして極めて要を得ているのは勿論であるが、その行文の間に卑怯な迫害者に対する苦々しさが滲透しているようである。彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマクス・ラインハルトの名も交じっていた。
その後ナウハイムで科学者大会のあった時、特にその中の一日を相対論の論評にあてがった。その時の会場は何となく緊張していたが当人のアインシュタインは極めて呑気(のんき)な顔をしていた。レナードが原理の非難を述べている間に、かつてフィルハルモニーで彼の人身攻撃をやった男が後ろの方の席から拍手をしたりした。しかしレナードの急(せ)き込んだ質問は、冷静な、しかも鋭い答弁で軽く受け流された。
レナード「もし実際そんな重力の『場』があるなら、何かもっと見やすい(anschaulich)現象を生じそうなものではないか。」

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