和田はこう前置きをしてから、いつにない雄弁(ゆうべん)を振い出した。
「僕は藤井の話した通り、この間(あいだ)偶然小えんに遇った。所が遇って話して見ると、小えんはもう二月ほど前に、若槻と別れたというじゃないか? なぜ別れたと訊(き)いて見ても、返事らしい返事は何もしない。ただ寂しそうに笑いながら、もともとわたしはあの人のように、風流人(ふうりゅうじん)じゃないんですというんだ。
「僕もその時は立入っても訊(き)かず、夫(それ)なり別れてしまったんだが、つい昨日(きのう)、――昨日は午(ひる)過ぎは雨が降っていたろう。あの雨の最中(さいちゅう)に若槻(わかつき)から、飯を食いに来ないかという手紙なんだ。ちょうど僕も暇だったし、早めに若槻の家へ行って見ると、先生は気の利(き)いた六畳の書斎に、相不変(あいかわらず)悠々と読書をしている。僕はこの通り野蛮人(やばんじん)だから、風流の何たるかは全然知らない。しかし若槻の書斎へはいると、芸術的とか何とかいうのは、こういう暮しだろうという気がするんだ。まず床(とこ)の間(ま)にはいつ行っても、古い懸物(かけもの)が懸っている。花も始終絶やした事はない。書物も和書の本箱のほかに、洋書の書棚も並べてある。おまけに華奢(きゃしゃ)な机の側には、三味線(しゃみせん)も時々は出してあるんだ。その上そこにいる若槻自身も、どこか当世の浮世絵(うきよえ)じみた、通人(つうじん)らしいなりをしている。昨日(きのう)も妙な着物を着ているから、それは何だねと訊(き)いて見ると、占城(チャンパ)[#ルビの「チャンパ」は底本では「チャンバ」]という物だと答えるじゃないか? 僕の友だち多しといえども、占城(チャンパ)なぞという着物を着ているものは、若槻を除いては一人もあるまい。――まずあの男の暮しぶりといえば、万事こういった調子なんだ。
「僕はその日(ひ)膳(ぜん)を前に、若槻と献酬(けんしゅう)を重ねながら、小えんとのいきさつを聞かされたんだ。小えんにはほかに男がある。それはまあ格別(かくべつ)驚かずとも好(よ)い。が、その相手は何かと思えば、浪花節語(なにわぶしかた)りの下(した)っ端(ぱ)なんだそうだ。君たちもこんな話を聞いたら、小えんの愚(ぐ)を哂(わら)わずにはいられないだろう。僕も実際その時には、苦笑(くしょう)さえ出来ないくらいだった。
「君たちは勿論知らないが、小えんは若槻に三年この方、随分尽して貰っている。若槻は小えんの母親ばかりか、妹の面倒も見てやっていた。そのまた小えん自身にも、読み書きといわず芸事(げいごと)といわず、何でも好きな事を仕込ませていた。小えんは踊(おど)りも名を取っている。長唄(ながうた)も柳橋(やなぎばし)では指折りだそうだ。そのほか発句(ほっく)も出来るというし、千蔭流(ちかげりゅう)とかの仮名(かな)も上手だという。それも皆若槻のおかげなんだ。そういう消息を知っている僕は、君たちさえ笑止(しょうし)に思う以上、呆(あき)れ返らざるを得ないじゃないか?
「若槻は僕にこういうんだ。何、あの女と別れるくらいは、別に何とも思ってはいません。が、わたしは出来る限り、あの女の教育に尽して来ました。どうか何事にも理解の届いた、趣味の広い女に仕立ててやりたい、――そういう希望を持っていたのです。それだけに今度はがっかりしました。何も男を拵(こしら)えるのなら、浪花節語りには限らないものを。あんなに芸事には身を入れていても、根性の卑(いや)しさは直らないかと思うと、実際苦々(にがにが)しい気がするのです。………
「若槻(わかつき)はまたこうもいうんだ。あの女はこの半年(はんとし)ばかり、多少ヒステリックにもなっていたのでしょう。一時はほとんど毎日のように、今日限り三味線を持たないとかいっては、子供のように泣いていました。それがまたなぜだと訊(たず)ねて見ると、わたしはあの女を好いていない、遊芸を習わせるのもそのためだなぞと、妙な理窟をいい出すのです。そんな時はわたしが何といっても、耳にかける気色(けしき)さえありません。ただもうわたしは薄情だと、そればかり口惜(くや)しそうに繰返すのです。もっとも発作(ほっさ)さえすんでしまえば、いつも笑い話になるのですが、………
「若槻はまたこうもいうんだ。何でも相手の浪花節語りは、始末に終えない乱暴者だそうです。前に馴染(なじみ)だった鳥屋の女中に、男か何か出来た時には、その女中と立ち廻りの喧嘩をした上、大怪我(おおけが)をさせたというじゃありませんか? このほかにもまだあの男には、無理心中(むりしんじゅう)をしかけた事だの、師匠(ししょう)の娘と駈落(かけお)ちをした事だの、いろいろ悪い噂(うわさ)も聞いています。そんな男に引懸(ひっか)かるというのは一体どういう量見(りょうけん)なのでしょう。………
「僕は小(こ)えんの不しだらには、呆(あき)れ返らざるを得ないと云った。しかし若槻の話を聞いている内に、だんだん僕を動かして来たのは、小えんに対する同情なんだ。なるほど若槻は檀那(だんな)としては、当世稀(まれ)に見る通人かも知れない。が、あの女と別れるくらいは、何でもありませんといっているじゃないか? たといそれは辞令(じれい)にしても、猛烈な執着(しゅうじゃく)はないに違いない。猛烈な、――たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが自然だと考えるんだ。小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に愛のない証拠だといった。僕はこの言葉の中にも、ヒステリイばかりを見ようとはしない。小えんはやはり若槻との間(あいだ)に、ギャップのある事を知っていたんだ。
「しかし僕も小えんのために、浪花節語りと出来た事を祝福しようとは思っていない。幸福になるか不幸になるか、それはどちらともいわれないだろう。――が、もし不幸になるとすれば、呪(のろ)わるべきものは男じゃない。小えんをそこに至らしめた、通人(つうじん)若槻青蓋(わかつきせいがい)だと思う。若槻は――いや、当世の通人はいずれも個人として考えれば、愛すべき人間に相違あるまい。彼等は芭蕉(ばしょう)を理解している。レオ・トルストイを理解している。池大雅(いけのたいが)を理解している。武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)を理解している。カアル・マルクスを理解している。しかしそれが何になるんだ? 彼等は猛烈な恋愛を知らない。猛烈な創造の歓喜を知らない。猛烈な道徳的情熱を知らない。猛烈な、――およそこの地球を荘厳にすべき、猛烈な何物も知らずにいるんだ。そこに彼等の致命傷(ちめいしょう)もあれば、彼等の害毒も潜(ひそ)んでいると思う。害毒の一つは能動的に、他人をも通人に変らせてしまう。害毒の二つは反動的に、一層(いっそう)他人を俗にする事だ。小えんの如きはその例じゃないか? 昔から喉(のど)の渇(かわ)いているものは、泥水(どろみず)でも飲むときまっている。小えんも若槻に囲われていなければ、浪花節語りとは出来なかったかも知れない。
「もしまた幸福になるとすれば、――いや、あるいは若槻の代りに、浪花節語りを得た事だけでも、幸福は確(たしか)に幸福だろう。さっき藤井がいったじゃないか? 我々は皆同じように、実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、掴(つか)まえない内にすれ違ってしまう。もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思(ひとおも)いに木馬を飛び下りるが好(よ)い。――いわば小えんも一思いに、実生活の木馬を飛び下りたんだ。この猛烈な歓喜や苦痛は、若槻如き通人の知る所じゃない。僕は人生の価値を思うと、百の若槻には唾(つば)を吐いても、一の小えんを尊びたいんだ。
「君たちはそう思わないか?」
和田は酔眼(すいがん)を輝かせながら、声のない一座を見まわした。が、藤井はいつのまにか、円卓(テエブル)に首を垂らしたなり、気楽そうにぐっすり眠(ね)こんでいた。
(大正十一年六月)
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底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月10日公開
2004年3月8日修正
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