八 火花
彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也(かなり)烈しかつた。彼は水沫(しぶき)の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は不相変(あひかはらず)鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。
九 死体
死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齢だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死体の顔の皮を剥(は)ぎはじめた。皮の下に広がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。
彼はその死体を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死体の臭気は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、静かにメスを動かして行つた。
「この頃は死体も不足してね。」
彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死体に不足すれば、何の悪意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。
十 先生
彼は大きい(かし)の木の下に先生の本を読んでゐた。の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤(はかり)が一つ、丁度平衡を保つてゐる。――彼は先生の本を読みながら、かう云ふ光景を感じてゐた。……
十一 夜明け
夜は次第に明けて行つた。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡してゐた。市場に群(むらが)つた人々や車はいづれも薔薇(ばら)色に染まり出した。
彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行つた。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかつた。が、彼は驚かなかつた。のみならずその犬さへ愛してゐた。
市場のまん中には篠懸(すずかけ)が一本、四方へ枝をひろげてゐた。彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。空には丁度彼の真上に星が一つ輝いてゐた。
それは彼の二十五の年、――先生に会つた三月目だつた。
十二 軍港
潜航艇の内部は薄暗かつた。彼は前後左右を蔽(おほ)つた機械の中に腰をかがめ、小さい目金(めがね)を覗(のぞ)いてゐた。その又目金に映つてゐるのは明るい軍港の風景だつた。「あすこに『金剛』も見えるでせう。」
或海軍将校はかう彼に話しかけたりした。彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふと阿蘭陀芹(オランダぜり)を思ひ出した。一人前三十銭のビイフ・ステエクの上にもかすかに匂つてゐる阿蘭陀芹を。
十三 先生の死
彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラツトフオオムを歩いてゐた。空はまだ薄暗かつた。プラツトフオオムの向うには鉄道工夫が三四人、一斉に鶴嘴(つるはし)を上下させながら、何か高い声にうたつてゐた。
雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は巻煙草に火もつけずに歓(よろこ)びに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……
そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡(なび)かせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。
十四 結婚
彼は結婚した翌日に「来(き)々(そうそう)無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑(わ)びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……
十五 彼等
彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。
十六 枕
彼は薔薇の葉の匂のする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでゐた。が、いつかその枕の中にも半身半馬神のゐることには気づかなかつた。
十七 蝶
藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅(つばさ)の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺(なす)つて行つた翅の粉だけは数年後にもまだきらめいてゐた。
十八 月
彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた。彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)今まで知らなかつた寂しさを感じた。……
十九 人工の翼
彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷(ひやや)かな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」の哲学者に近づいて行つた。
人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴオルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。
彼はこの人工の翼をひろげ、易(やす)やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮(さへぎ)るもののない空中をまつ直(すぐ)に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘(ギリシヤ)人も忘れたやうに。……
二十 械(かせ)
彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。
二十一 狂人の娘
二台の人力車は人気のない曇天の田舎道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の来るのでも明らかだつた。後の人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して恋愛ではなかつた。若(も)し恋愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける為に「兎(と)に角(かく)我等は対等だ」と考へない訣(わけ)には行かなかつた。
前の人力車に乗つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の為に自殺してゐた。
「もうどうにも仕かたはない。」
彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎悪を感じてゐた。
二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蠣殻(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黒(くろず)んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を軽蔑し出した。……
二十二 或画家
それは或雑誌の(さ)し画(ゑ)だつた。が、一羽の雄鶏の墨画(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの画家のことを尋ねたりした。
一週間ばかりたつた後、この画家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を発見した。
或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽(たちま)ちこの画家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神経のやうに細ぼそと根を露(あら)はしてゐた。それは又勿論傷(きずつ)き易い彼の自画像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ発見は彼を憂欝にするだけだつた。
「もう遅い。しかしいざとなつた時には……」

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