八 ナポリとポンペイ
五月二日
朝甲板へ出て見ると、もうカプリの島が見える。朝日が巌壁(がんぺき)に照りはえて美しい。やがてヴェスヴィオも見えて来た。遠い異郷から帰って来たイタリア人らは、いそいそと甲板を歩き回って行く手のかなたこなたを指ざしながら、あれがソレント、あすこがカステラマレと口々に叫んでいる。いろいろの本で読んだ覚えのある、そしていろいろの美しい連想に結びつけられたこれらの美しい地名が一つ一つ強い響きを胸に伝える。船が進むにつれて美しい自然と古い歴史をもった市街のパノラマが目の前に押し広げられるのである。子供の時分から色刷り石版画や地理書のさし絵で見慣れていて、そして東洋の日本の片田舎(かたいなか)に育った子供の自分が、好奇心にみちた憧憬(どうけい)の対象として、西洋というものを想像するときにいつも思い浮かべた幻像の一つであったあのヴェスヴィアスが、今その現実の姿をついそこにまのあたり現わしていた。しかし思っていたほどの煙は吐いていなかった。同様に絵で見なれたイタリア松の笠(かさ)をかむったようなのが丘の上などに並んでいるのもなつかしかった。
検疫がすんで桟橋(さんばし)へつくと、案内者がやって来てしきりにポンペイ見物をすすめた。年取ったふとった案内者の顔はどこかフランスの大統領に似ていたが、着ている背広はみすぼらしいものであった。T氏とハース氏とドイツ大尉夫妻と自分と合わせて五人の組を作ってこの老人の厄介(やっかい)になることにした。無蓋(むがい)の馬車にぎし詰めに詰め込まれてナポリの町をめぐり歩いた。
とある寺院へはいって見た。古びたモザイックや壁画はどうしても今の世のものではなかった。金光燦爛(さんらん)たる祭壇の蝋燭(ろうそく)の灯(ひ)も数世紀前の光であった。壁に沿うて交番小屋のようなものがいくつかあった、その中に隠れた僧侶(そうりょ)が、格子越(こうしご)しに訴える信者の懺悔(ざんげ)を聞いていた。それはおもに若い女であった。ここでも罪を犯したもののほうが善人で、高徳な僧侶のほうが悪人であった。なんとなくこういう僧侶に対する反感のこみ上げて来るのをどうする事もできなかった。尼僧の面会窓がある。さながら牢屋(ろうや)を思わせるような厳重な鉄の格子には、剛(かた)く冷たくとがった釘(くぎ)が植えてあった。この格子の内は、どうしても中世紀の世界であるような気がした。
ここを出て馬車は狭い勾配(こうばい)の急な坂町の石道をガタガタ揺れながら駆けて行った。ハース氏はベデカを片手に一人でよく話していたが大尉夫妻はドイツ軍人の威厳を保っているかのように多くは黙っていた。T氏と自分もそれぞれの思いにふけっておし黙っていた。その――土地の人の目にはさだめて異様であったろうと思うわれわれ一組の観客の前を、美しくよごれた南欧の町の光景がただあわただしく走り過ぎて行った。
停車場へ着いてポンペイ行きに乗る。客車の横腹に Fumatori と大きく書いてあるのを、行く先の駅名かと思ったら、それは喫煙車という事であった。客車の中は存外不潔であった。汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふもとを走って行った、ふもとから見上げると海上から見たほど高くは見えなかった。熔岩(ようがん)が海中へ流れ込んだ跡も通って行った。シャボテンやみかんのような木も見られた。粗末な泥土塗(どろつちぬ)りの田舎家(いなかや)もイタリアと思えばおもしろかった。古風な木造の歯車のついた粉ひき車がそのような家の庭にころがっているのも珍しかった。青い海のかなたにソレントがかすんで、絵のような小船が帆をたたんで岸に群れているのも、みんなそれがイタリアであった。……トルレ・デル・アヌンチアタで汽車をおりた。アンデルセンの『即興詩人』を読んだ時に頭に刻まれていたいろいろの場面が、この駅の名の響きに応じて強く新しくよみがえって来るのであった。
馬車が古い昔の町を通り抜けると馬鈴薯畑(ばれいしょばたけ)の中の大道を走って行った。ところどころに孤立したイタリア松と白く輝く家屋の壁とは強い特徴のある取り合わせであった。
ホテル・ドゥ・ヴェシューヴと看板をかけた旗亭(きてい)が見える。もうそこがポンペイの入り口である。入場料を払って関門を入ると、そこは二千余年前の文化の化石で、見渡す限りただ灰白色をした低い建物の死骸(しがい)である。この荒涼な墓場の背景には、美しい円錐火山(えんすいかざん)が、優雅な曲線を空に画してそびえていた。空に切れ切れな綿雲の影が扇のように遠く広がったすそ野に青い影を動かしていた。過去のいろいろの年代にあふれ出した熔岩の流れの跡がそれぞれ違った色彩によって見分ける事ができるのであった。しかし火山は昔の大虐殺などは夢にも知らないような平和な姿をして、頂上にただあるかなしの白い煙を漂わせているだけであった。
狭い町は石畳になって、それに車の轍(わだち)が深い溝(みぞ)をなして刻みつけられてあった。車道が人道に接する所には、水道の鉛管がはみ出していた。それが青白くされ(さ)びて、あがった鰻(うなぎ)を思わせるような無気味な肌(はだ)をさらしてうねっていた。
富豪の邸宅の跡には美しい壁画が立派に保存されていた。それには狩猟や魚族を主題としたものもあった。大きな浴場の跡もあった。たぶん温度を保つためであろう、壁が二重になっていた。脱衣棚(だついだな)が日本の洗湯(せんとう)のそれと似ているのもおもしろかった。風呂(ふろ)にはいっては長椅子(ながいす)に寝そべって、うまい物を食っては空談にふけって、そしてうとうとと昼寝(シエスタ)をむさぼっていた肉欲的な昔の人の生活を思い浮かべないわけにはゆかなかった。
劇場(テアトロ)の中のまるい広場には、緑の草の毛氈(もうせん)の中に真紅の虞美人草(ぐびじんそう)が咲き乱れて、かよわい花弁がわずかな風にふるえていた。よく見ると鳥頭(とりかぶと)の紫の花もぽつぽつ交じって咲いていた。この死滅した昔の栄華と歓楽の殿堂の跡にこんなかよわいものが生き残っていた、石や煉瓦(れんが)はぽろぽろになっているのに。
酒屋の店の跡も保存されてあった。パン屋の竈(かまど)の跡や、粉をこねた臼(うす)のようなものもころがっていた。娼家(しょうか)の入り口の軒には大きな石の penis が壁から突き出ていた。大尉夫人だけはここでひとり一行から別れて向こうの辻(つじ)でわれわれを待ち合わせるように取り計らわれた。街路の人道から入り口へ踏み込むとすぐ右側に石のベンチのようなものがいくつか並んでいるだけで、狭い低い暗い部屋(へや)というだけであった。よく見ると天井に近く壁を取り巻いてさまざまの壁画が描かれてあった。何十いくつとかの verschiedene Stellungen を示したものだとハース氏が説明して聞かした。青や朱や黄の顔料の色の美しいあざやかさと、古雅な素朴(そぼく)な筆致とは思いのほかのものであった。そこには少しもある暗い恐ろしさがなかった。
少し喘息(ぜんそく)やみらしい案内者が No time, Sir ! と追い立てるので、フォーラムの柱の列も陳列館(ミュゼオ)の中も落ち着いて見る暇はなかった。陳列館には二千年前の苦悶(くもん)の姿をそのままにとどめた死骸(しがい)の化石もあったが、それは悲惨の感じを強く動かすにはあまりにほんとうの石になり過ぎているように思われた。それよりはむしろ、半ば黒焦げになった一握りの麦粒のほうがはるかに強く人の心を遠い昔の恐ろしい現実に引き寄せるように思われた。
火山の名をつけた旗亭(きてい)で昼飯を食った。卓上に出て来た葡萄酒(ぶどうしゅ)の名もやはり同じ名であった。少しはなれた食卓にただ一人すわっている日本人らしい若い紳士にハース氏が「アナタハニホンノカタデスカ」と話しかけると Ja ! といってうなずいて見せた。こちらがわざわざ日本語で話しかけるのに Ja ! はおかしいと言ってハース氏は私の耳につぶやいた。しかし自分はおかしいとは思えなかった。それはさびしい旅客のある心持ちを適切に語るものだとしか思われなかった。名刺をもらって見るとそれは某大学の留学生で法学士のN氏であった。N氏の話によると自分の旧知のK氏が今ちょうどドイツからイタリア見物の途上でナポリに来ているとの事であった。自分は会いたかったが出帆前にとてもそれだけの時間はなかった。思いもかけぬ異郷で同じ町に来合わせながら、そのままにまた遠く別れて行くのをわびしくもまたおもしろくも思った。
旗亭の入り口に立ってギターをひく若者があった。その曲が、なんだかポートセイドの小船の楽手らのやっていたのとよく似た心持ちを浮かべるものであった。同じようにせつないやるせのないようなものであった。自分はこれを聞きながら窓掛けの外に輝く南国の日光を見つめているうちに、不思議な透明なさびしさといったようなものに襲われたのであった。
ナポリへ帰って、ポーシリッポの古城もただ外から仰いで見ただけで船へ帰ると、いろいろの物売りが来ていた。古めかしい油絵の額や、カメオや七宝の装飾品などが目についた。双眼鏡の四十シリングというのをT氏が十シリングにつけたら負けてよこした。……五時出帆。少し波が出て船が揺れた。
(大正十年二月、渋柿)

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