六 紅海から運河へ
四月二十七日
午前右舷(うげん)に双生(ツウイン)の島を見た。一方のには燈台がある。ちょうど盆を伏せたような格好で全体が黄色い。地図で見ると兄弟島(デイブルーデル)というのらしい、どちらが兄だかわからなかった。
アデンを出てから空には一点の雲も見ないが、空気がなんとなく濁っている。ハース氏の船室は後甲板の上にあるが、そこでは黒の帽子を一日おくと白く塵(ちり)が積もると言っていた。どうもアフリカの内地から来る非常に細かい砂塵(さじん)らしい。
午後乗り組みの帰休兵が運動競技をやった。綱引きやら闘鶏(ハーネンカンプ)――これは二人が帆桁(ほげた)の上へ向かい合いにまたがって、枕(まくら)でなぐり合って落としっくらをするのである。それから Geld Suchen im Mehl というのは、洗面鉢(せんめんばち)へ盛ったメリケン粉の中へ顔を突っ込んで中へ隠してある銀貨を口で捜して取り出すのである。やっと捜し出してまっ白になった顔をあげて、口にたまった粉を吐き出しているところはたしかに奇観である。Aepfel Suchen im Wasser というのは、水おけに浮いているりんごを口でくわえる芸当、Wurst Schnappen は頭上につるした腸詰めへ飛び上がり飛び上がりして食いつく遊戯である。将校が一々号令をかけているのが滑稽(こっけい)の感を少なからず助長するのであった。
船首の突端へ行って海を見おろしていると深碧(しんぺき)の水の中に桃紅色の海月(くらげ)が群れになって浮遊している。ずっと深い所に時々大きな魚だか蝦(えび)だか不思議な形をした物の影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えてしまう。
右舷(うげん)に見える赤裸の連山はシナイに相違ない、左舷にはいくつともなくさまざまの島を見て通る。夕方には左にアフリカの連山が見えた。真に鋸(のこぎり)の歯のようにとがり立った輪郭は恐ろしくも美しい。夕ばえの空は橙色(だいだいいろ)から緑に、山々の峰は紫から朱にぼかされて、この世とは思われない崇厳な美しさである。紅海(こうかい)は大陸の裂罅(れっか)だとしいて思ってみても、眼前の大自然の美しさは増しても減りはしなかった。しかしそう思って連山をながめた時に「地球の大きさ」というものがおぼろげながら実認(リアライズ)されるような気がした。
四月二十八日
朝六時にスエズに着く。港の片側には赤みを帯びた岩層のありあり見える絶壁がそばだっている。トルコの国旗を立てたランチが来て検疫が始まった。
土人の売りに来たものは絵はがき、首飾り、エジプト模様の織物、ジェルサレムの花を押したアルバム、橄欖樹(かんらんじゅ)で作った紙切りナイフなど。商人の一人はポートセイドまで乗り込んで甲板で店をひろげた。
十時出帆徐行。運河の土手の上をまっ黒な子供の群れが船と並行して走りながら口々にわめいていた。船ではだれも相手にしないので一人減り二人減り、最後に残った二三人が滑稽(こっけい)な身ぶりをして見せた。そして暑い土手をとぼとぼ引き返して行った。両岸ことにアラビアの側は見渡す限り砂漠(さばく)でところどころのくぼみにはかわき上がった塩のようなまっ白なものが見える。アフリカのほうにははるかに兀(ごつ)とした岩山の懸崖(けんがい)が見え、そのはずれのほうはミラージュで浮き上がって見えた。苦海(ビッターシー)では思いのほか涼しい風が吹いたが、再び運河に入るとまた暑くなった。ところどころにあるステーションだけにはさすがに樹木の緑があって木陰には牛や驢馬(ろば)があまり熱帯らしくない顔をして遊んでいた。岸べに天幕があって駱駝(らくだ)が二三匹いたり、アフリカ式の村落に野羊がはねていたりした。みぎわには蘆(あし)のようなものがはえている所もあった。砂漠にもみぎわにも風の作った砂波(サンドリップル)がみごとにできていたり、草のはえた所だけが風蝕(ふうしょく)を受けないために土饅頭(どまんじゅう)になっているのもあった。
夜ひとりボートデッキへ上がって見たら上弦の月が赤く天心にかかって砂漠(さばく)のながめは夢のようであった。船橋の探照燈は希薄な沈黙した靄(もや)の中に一道の銀のような光を投げて、船はきわめて静かに進んでいた。つい数日前までは低く見えていた北極星(ポーラリス)が、いつのまにか、もう見上げるように高くなっていた。
スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサレム行きの一行十人ばかり、シェンケの側の甲板で卓を囲んで、あす上陸する前祝いででもあるかビールを飲みながら歌ったり踊ったりしていた。
(大正九年十一月、渋柿)

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