映画と夢
以上のごとく考えて来るとわれわれは自然に映画と夢との比較を暗示される。
夢の中に現われる雑多な心像は一見はなはだ突飛なものでなんの連絡もない断片の無機的系列に過ぎないようであるが、精神分析学者の説くところによると、それらの断片をそれの象徴する潜在的内容に翻訳すれば、そういう夢はちゃんとした有機的な文章になり、そうして恐るべきわが内部生活の秘密を赤裸々に暴露するものである。ただ夢の場合にはこれらの「夢内容」を表わす象徴としての顕在像が普遍的のものでなく人々の個人的な歴史によってのみ規定されたものであるから読み取ることが困難だというのである。
映画や連句の場合においても、一つ一つの顕在的な映像の底にかくれた潜在的内容が多量に存在している。モンタージュの秘密は、この潜在的内容の言葉で文章をつづって行く方法にあるとも言われる。
夢の心理と連句の心理の比較についてはかつて雑誌「渋柿(しぶがき)」誌上で詳論したからここでは略する。そうしてそこで論じたことはほとんどそのままにまた映画のモンタージュに適用してもさしつかえないと思うのである。それはとにかく自分がこの論を出した後に「クローズ・アップ」第七巻第二号を見ていたらヒューズ(C. J. Pennethorne Hughes)という人が映画と夢との比較を論じているのを見て興味を引かれた。夢に色彩のないこと、羊の群れが見る間に兵隊の群れに変わったりすることなどが述べてある。それから、夢が阻止された願望の実現となるように、映画の観客は映画を見ることにより、実際には到底なれない百万長者になり、できない恋をしたり、不可能事をしとげるというようなことも言っている。これもおもしろい見方である。映画の大衆的であるゆえんは最も密接にこの点につながっているという事は疑いもないことである。
映画と連句とが個々の二つの断片の連結のモンタージュにおいてほとんど全く同一であるにかかわらず、全体としての形態において著しい相違のあるのは、いわゆる筋が通っているのと通っていないのとの区別である。多くの映画は一通りは論理的につながったストーリーの筋道をもっているのに、連句歌仙(かせん)の三十六句はなんらそうした筋をもたないのである。しかも映画でもたとえば「ベルリン」のごときは全体としてなんらの物語を示さない。マン・レイの「海翻車(ひとで)」もなんらの事件を示さず、ただこの海産動物につながる連想の活動を刺激することによって「憧憬(どうけい)のかすみの中に浮揺する風景や、痛ましく取り止めのつかない、いろいろのエロチックな幻影や、片影しか認められないさまざまの形態の珍しい万華鏡(まんげきょう)の戯れやが、不合理な必然性に従って各自の中から生長する」(ボラージュ「映画の精神」一一五ページ)。
しかしこれらの絶対映画では、ともかくも「ベルリン」とか「ひとで」とかいう主題によって全体が総括されている。しかしそれほど簡単でないものもある。「アンダルーシアの犬」と称する非現実映画(往来社版、映画脚本集第二巻)になるともはやそういう明白な主題はない。そのモンタージュは純然たる夢の編成法であり、しかもかなりによく夢の特性をつかんでいる。たとえば月を断ち切る雲が、女の目を切る剃刀(かみそり)を呼び出したり、男の手のひらの傷口から出て来る蟻(あり)の群れが、女の腋毛(わきげ)にオーバーラップしたりする。そういう非現実的な幻影の連続の間に、人間というものの潜在的心理現象のおそるべき真実を描写する。この点でこの種の映画の構成原理は最も多く連句のそれに接近するものと言わなければならない。この比較は、現在あるものよりもさらにより多く連句的なる非現実映画の可能性を暗示する。通例はそう思われていないドブジェンコの「大地」などはまさしくその方向への第一歩であるに相違ない。
前衛映画
映画を演劇や文学から解放して映画的な映画の天地を開拓しようとして起こされたいろいろの運動の試みがいわゆる前衛映画である。「アヴァンギァルドとは金にならぬ映画を作る人たちの仲間を言う」と揶揄(やゆ)した人がある。従来のこれらの試みは、すべてただ実験室的の意義しかないが、そういう意義においては尊重すべきものであるというふうに解釈されている。しかしそうばかりは言われないであろうと思われる。アメリカ人やドイツ人には到底理解されないものが東洋日本の大衆には理解され享楽されている例はいくらでもある。将来もしもここで言うような連句的な前衛映画が培養され発育しうる土地があるとすれば、それはおそらくわが日本のほかにはないであろうと思われる。そうしてそれはおそらくフランス人とロシア人にはいくぶんかは理解されるであろうと思われる。それにかかわらず現在においてこの方面を開拓しようとする運動の萌芽(ほうが)すらわが国のどこにも認められないのは残念なことである。

0