抽象映画
スウェーデンの一画家がはじめた抽象映画は、幾何学的形象の運動の連鎖であって「動く装飾」と言われている。これは聴覚に関する音楽から類推して視覚的音楽を作ろうという意図から起こったものであろうが、これはおそらく誤った類推による失敗であろうと思われる。耳は音自身を聞き、しかもこれを無意識に分析しうる特殊の能力をもっている。しかし目はその映像の中に総合された実体とその内容とを見るものであって、特別な訓練なしにはその中から線や面を分析し抽出するようにできていない。これだけの根本的な感官的性能の差違を考えただけでも抽象映画なるものの価値は理解されるであろう。それで絵画におけるキュービズムやフュチュリズムの運命が、おそらくはこの種の映画の行く末を見せてくれるであろう。
発声映画
無声映画がようやく発達して、演技や見世物の代弁の地位を脱却し、固有の領域を設定しかけたときに、突然発声映画の器械が市場に現われた。それがためにようやく「雄弁」になりかけた無声映画は突然「おし」にされてしまったのであった。
映画が物を言うというノヴェルティに対する好奇心はほんのわずかの間に消え去ってしまうとともにあらゆる困難が続出して来て、映画芸術は高い山から谷底へ顛落(てんらく)した。そうしてその第一歩からもう一ぺん新しく踏み出さなければならないことになってしまった。
まず第一に技術上の困難が起こる。たとえば雑音を防止するために従来のステュジオが役に立たなくなるとか、実際の雑音はまるで別物に変わるから適当な擬音を捜すとか、動き回る役者の声をどうして録音するかというようないろいろの問題が、単なる技術上だけの問題でなくて、映すべき素材の上に制限を及ぼすことになる。しかしそういう困難はすべて解決されたとして、あとに残る純粋な芸術上の問題が起こって来るのである。
すぐにわかったことは、役者のダイアローグを聞かせようと思うと視覚的画面が静的になってしまって死んでしまう。それを避けるために隣室で立ち聞く人を映したりして単調を防ぐ必要が起こって来る。
それよりも困ったことには国語の相違ということが有声映画の国際的普遍性を妨げる。無声映画を「聞」いていた観客は、有声になったために聾(つんぼ)になってしまった。
この困難を避けるにはできるだけ言語を節約するという方針が生まれる、そうして字幕との妥協が講究される。
言葉の節約によって始めて発見されたおもしろい事実は、発声映画によって始めて完全に「沈黙」が表現されうるということであった。無声映画ではただわずかに視覚的に暗示されるに過ぎなかった沈黙と静寂とが発声映画によってはじめて力強い実感として表現されるようになったのである。
それと同時にまた一歩進んで適当な雑音の插入(そうにゅう)がいっそうこの沈黙の強度(インテンシティ)を強めることもわかって来た。一鳥の鳴き声で山がさらに幽静になるという昔の東洋詩人の発見した事が映画家によって新たにもう一度発見され応用されるようになった。舗道をあるくルンペンの靴音(くつおと)によって深更のパリの裏町のさびしさが描かれたり、林間の沼のみぎわに鳴く蛙(かえる)や虫の声が悲劇のあとのしじまを記載するような例がそれである。
このような音のモンタージュは俳諧(はいかい)には普通である。有名な「古池やかわず飛び込む水の音」はもちろんであるが「灰汁桶(あくおけ)のしずくやみけりきりぎりす」「芭蕉(ばしょう)野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞く夜かな」「鉄砲の遠音に曇る卯月(うづき)かな」等枚挙すれば限りはない。
すべての雑音はその発音体を暗示すると同時にまたその音の広がる空間を暗示する。不幸にして現在の録音機と発声マイクロフォンとはその機巧のいまだ不完全なために、あらゆる雑音の忠実な再現に成功していない。それで、盲者が、話し声の反響で室の広さを判断しうるような微妙な音色の差別を再現することはまだできないのであるが、それにもかかわらず適当な雑音の適当な插入が画面の空間の特性を強調する事は驚くべきものである。通り過ぎる汽車の音の強まり弱まり消え去ることによって平面的なスクリーンはたちまち第三次元の空間を獲得して数平方メートルの舞台は数キロメートルの広さに拡張される。遠くから聞こえて来る太鼓の音に聞き耳をたてるヒロインの姿から、一隊の兵士の行進している長い市街のヴィスタが呼び出され描き出される。霧の甲板にひびく汽笛の音とその反響によってある港の夜の空間が忽然(こつぜん)として観客の頭の中に広がるのである。
音が空間を描き出すのは、音の伝播(でんぱ)が空間的であって光のごとく直線的でないためである。それがためにまたわれわれは音の来る角度を制限することができない。広い視野のうちから一定のわくによって限られた部分だけを切り取って映出するという光学的技法は音響の場合にもはや当てはめることができない。従って画面には写っていない人間や発音体の音が容赦なく侵入してくる。しかしこの音響伝播の特性を利用することによって発声映画は異常な能力を発揮することができるのである。たとえば探偵(たんてい)が容疑犯罪者と話しているおりから隣室から土人の女の歌が聞こえて来るのに気がついて耳をそばだてる。歌がやんで後にその女が現われるとすれば、そこに特殊なモンタージュ効果を生ずる。あるいは突然銃声が聞こえて窓ガラスに穴をあける、そこでカメラが回転(パン)して行って茂みに隠れた悪漢に到着するといったような、いわゆる非同時的(アシンクロナス)な音響配偶によっていろいろの効果が収め得らるるのである。「西部戦線」の最後の幕で、塹壕(ざんごう)のそばの焦土の上に羽を休めた一羽の蝶(ちょう)を捕えようとする可憐(かれん)なパウルの右手の大写しが現われる。たちまち、ピシンと鞭(むち)ではたくような銃声が響く。パウルの手は瞬時に痙攣(けいれん)する、そうして静かに静かに力が抜けて行くのである。
音と光との二つの世界のいろいろの差違がいろいろの形で発声映画に利用される、そのもう一つの顕著な目標はリズムの問題に係わっている。律動は本来時間的のものであって時間的に週期的な現象がわれわれ人間に生理的および心理的に内在する律動感に共鳴する現象である。空間的のリズムは、これから導出(デライヴ)された第二次的のものであって、目が空間を探り歩く運動によってはじめて時間的なリズムに翻訳されるのである。従って律動感の最も本質的なものは時間的に一元的な音響的音楽的律動である。律動的な音は子供でも野蛮人でも自然に踊り出させるのであるが、無声無伴楽映画のかなり律動的な場面を見ても、訓練されない観客はなかなか足拍子手拍子をとるような気分にはならないのである。それで、発声映画において視覚のリズムと照応した物音の律動的駆使によって著しい効果を収めうるのは当然のことである。たとえば、ルービッチの「モンテカルロ」で突進する機関車のエンジンの運動と汽笛の音と伴奏音楽との合成的律動や、「自由をわれらに」における工場の鎚(つち)の音、「人生案内」の線路工事の鉄挺(てってい)の音の使用などのようなのがそれである。これらの雑音だけで、音楽を抜きにしてもおそらくある程度までは同様な律動感を呼び起こされるであろうと想像される。
画面と音響との対位法的な律動的構成の試みが「世界のメロディー」の中に用いられていた。ピアノの鍵盤(けんばん)とピアノの音とが、銅鑼(どら)のクローズアップとその音とに交互にカットバックされるところなどあったように記憶する。この映画は全体としてはむしろ失敗であったと思われるが、しかしこういうような手法の試みとしての価値は認めてやらなければならないであろう。
視覚と聴覚とのもう一つの著しい差違の点がある。それはこの二つの感覚の単義性(アインドイチヒカイト)における相違である。視像の場合でももちろん錯覚によって甲のものを乙と誤認することは可能である。実際この錯覚を利用して、オーバーラップによる接枝法(グラフト)モンタージュで、ハンケチから白ばらを化成する。しかし音の場合はやや趣が違う。少なくもわれわれ目明きの世界においては、一つの雑音あるいは騒音の聴覚によって喚起される心像は非常に多義的なものである。たとえば風の音は衣(きぬ)ずれの音に似通い、ため息の声にも通じる。タイプライターの音は機関銃にも、鉄工場のリベットハマーの音にも類しうる可能性をもっている。これがためにたとえば鵞鳥(がちょう)の声から店の鎧戸(よろいど)の音へ移るような音のオーバーラップは映像のそれよりも容易でありまた効果的でありうる。のみならずいろいろな雑音はその音源の印象が不判明であるがために、その喚起する連想の周囲には簡単に名状し記載することのできない潜在意識的な情緒の陰影あるいは笹縁(ささべり)がついている。音の具象性が希薄であればあるほど、この陰影は濃厚になる。それだから、名状し難いいろいろな心持ちのニュアンスの象徴としては音のほうが画像よりもいっそう有力でありうるということになる。
たとえば「人生案内」の最後の景において機関車のほえるようなうめくような声が妙に人の臓腑(ぞうふ)にしみて聞こえる。「パリの屋根の下」で二人の友がけんかをしようとするときに、こわれたレコードのガーガーと鳴り出すその非音楽的な不快な騒音が異常に象徴的な効果をもって場面のやまを頂上へと押し上げる。
象徴的であるがゆえにまた音響はライトモチーヴとしても有効に使用される。「モロッコ」における太鼓とラッパ、「青い天使」における時鐘の音などがそれである。このあとの映画で、不幸なるラート教授が陋巷(ろうこう)の闇(やみ)を縫うてとぼとぼ歩く場面でどことなく聞こえて来る汽笛だかなんだかわからぬ妙な音もやはりそういう意味で使われたものであろう。運命ののろいの声とでもいうような感じを与えるものである。
俳諧連句(はいかいれんく)においては実に巧妙にこれら音響のモンタージュ手法が採用されている。前掲「灰汁桶(あくおけ)」の句ではしずくの点滴の音がきりぎりすの声にオーバーラップし、「芭蕉(ばしょう)野分(のわき)して」の句では戸外に荒るる騒音の中から盥(たらい)に落つる雨漏りの音をクローズアップに写し出したものである。またたとえば芭蕉(ばしょう)は時鳥(ほととぎす)の声により、漱石(そうせき)は杭(くい)打つ音によって広々とした江上の空間を描写した。「咳声(しわぶき)の隣はちかき縁づたい」に「添えばそうほどこくめんな顔」は非同時性(アシンクローネ)モンタージュであり、カメラの回転追跡(Nachpanoramieren)である。こういう例をあげれば際限はない。他日適当の場所で細説したいと思う。
録音と発音の機械的改良が進展して来る一方でまたトーキーファンの聴覚が訓練されて来れば、発声映画の可能性はさらに拡張されるであろう。点滴の音によってその室の広さを感じ、雷鳴の響きによって山の近さを感じることも可能になるであろう。
ともかくも光像と音響は単に並行的に使用さるべきものではなく、対位法的、調音的に編集さるべきものである。並行的使用は両方の要素を相殺し、対位法的編成は二つのものを生かし強調するのである。

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