四 ドライヴ
身体の弱いものがいちばんはっきり自分の弱さを自覚させられて不幸に感ずるのは、この頃のような好い時候の、天気の特別に好い日である。健康ならばどんなにでも仕事の能率の上がる時でありながら気分が悪くて仕事が思うように出来ず、また郊外へ散歩にでも行けばどんなに愉快であろうと思うが、少し町を歩いただけで胃の工合が悪くなってどうにも歩行に堪えられなくなる。歩かなくても電車や汽車やバスでどこまででも行けるではないかと云われるが、しかしそういう好季節の好天気の休日の交通機関に乗ってゆっくり腰をかけられるチャンスは少ないし、腰かけられたとしても、車内の混雑に起因する肉体的ならびに精神的の苦痛は、目的地の自然から得られる慰藉(いしゃ)によって償われるかどうか疑問である。
おそらく十年の前から年々にこんな苦情を繰返していたのであるが、つい最近になってふとこの苦情を一掃するような一つの方法を発明した。発明と云っても、それは多くの人には発明でもなんでもない平凡至極なことであるが、しかし自分にとっては実に重大なる発明であり発見であったのである。
それは、外でもない。三時間か四時間だけ自動車を一台やとって、道路のいい田舎へ出かけてどこでも好きなところで車を止めて土が踏みたければ踏み、草に寝たければ寝るということである。近頃の言葉で云えばドライヴを試みることである。
自動車で田舎へ遊山(ゆさん)に出かけるというようなことは非常な金持のすることで吾々風情(われわれふぜい)の夢にも考えてはならない奢(おご)りの極みであるような気が何となしにしていた。二十年前にはたしかにそうであったにちがいないが、今ではもうそれほどでもなさそうに思われた。面倒な理窟や計算は抜きにしても少なくも病院にはいるより安いことだけはたしかである。
試みにある日曜の昼過ぎから家族四人連れで奥多摩の入口の辺までという予定で出かけた。青梅(おうめ)街道を志して自分で地図を見ながら、地理を知らぬ運転手を案内して進行したが、どこまで行ってもなかなか田舎らしい田舎へ出られないのに驚いた。杉並区のはずれでやっとともかくも東京を抜け出すまでが容易でなかった。この町はずれで巡査に呼止められて検査済の札を貼らされたが、一処に止められた他の車に式場へ急ぐらしい角かくしの花嫁の姿も見えたのは気の毒であった。
東京の行政区劃だけは脱け出しても東京の匂いはなかなか脱けない。それでも田無町(たなしまち)辺からは昔の街道の面影が保存されているらしい。いくつとなく踏切番のいない鉄路を横切るのは不安である。突然路が右へ曲ると途方もない広い新道が村山瀦水池(ちょすいち)のある丘陵の南麓へ向けて一直線に走っている。無論参謀本部の五万分一地図にはないほど新しい道路である。道傍(みちばた)の畑で芋を掘上げている農夫に聞いて、見失った青梅への道を拾い上げることが出来た。地図をあてにする人間が地図にない道に出逢ったほど当惑することはない。頭の中の実在と眼前の実在とが矛盾するのを発見する瞬間に自分の頭に対する信用が一度に消滅するのである。皮肉なことには地図にないような道路は最近に出来た最も立派なモーターロードなのである。
東京附近の自動車道路の詳細な地図はないかと思ってこの間中探したが見付からなかった。鳥瞰図(ちょうかんず)式の粗雑なものはあったが、図がはなはだしく歪められているので正確な距離や方角の見当がつかないし、またどのくらい信用出来るかも不明である。鉄道省で出来た英文のモーターロードマップがあって、これは便利であるが、あまりに簡単でその道路と他の地物との関係が不明であり、また最近のところまでアップ・ツ・デートにはなっていないらしい。やはり便利のようで不便なのが現在の世の中である。
楽々園(らくらくえん)で車を降りて入場しようとすると、向うから来る酔っぱらいの二人連れが何かしら不機嫌でいきなり出入口のターンパイクを引っこ抜いて投げ出して行った。園内の芝生は割合に気持のいいところである。芝生の真中で三、四人弁当をひろげて罎詰(びんづ)めの酒を酌んでいる一団がある。中年の商人風の男の中に交じった一人の若い女の紫色に膨(ふく)れ上がった顔に白粉(おしろい)の斑(まだら)になっているのが秋の日にすさまじく照らし出されていた。一段降りて河畔の運動場へ出ると、男女学生の一と群が小鳥のごとく戯れ遊んでいた。男の方がたいてい大人しくしおらしくて女の方がたいて活溌で度胸がいいのがこうした群に共通な現象のようである。神代以来の現象かもしれない。カメラを持った男のきっと交じっているのは近頃のことである。
帰りに青梅を出て間もなく二度までも巡査に呼止められて検査札を見届けられた。「ナーンダ杉並か、馬鹿に小さな札じゃないか」と云って、検査済の紙札の小さい事の責任をわれわれに負わされるのであった。二度目に「つかまった」ときの巡査は今日出会った三人の中ではいちばん柔和で愛嬌のある人であったが「いったいどこへ行くんだ」「東京です」「東京なら此方(こっち)へ来ちゃダメだぞ。とんでもない処へ行っちまうぜ」と云うので、教えられたままにそこから直角に曲って南へ正しい街道を求めながら人気(ひとけ)の稀な多摩の原野を疾走した。広大な松林の中を一直線に切開いた道路は実に愉快なちょっと日本ばなれのした車路で、これは怪我の功名意外の拾い物であった。
帰路は夕日を背負って走るので武蔵野(むさしの)特有の雑木林の聚落(しゅうらく)がその可能な最も美しい色彩で描き出されていた。到る処に穂芒(ほすすき)が銀燭のごとく灯(とも)ってこの天然の画廊を点綴(てんてい)していた。
東京へ近よるに従って東京の匂いがだんだんに濃厚になるのがはっきり分かる。到る処の店先にはラジオの野球放送に群がる人だかりがある。市内に這入るとこれがいっそう多くなる。こうして一度にそれからそれと見て通ると、ラジオ放送のために途上で立往生している人間の数がいかに多数であるかということをはっきりとリアライズすることが出来る。実に十年前には見られなかった新しい顕著な社会現象の一つである。これが東京市内に限らず全国的であることを思うといっそう著しいことと思われて来るのである。これだけの著しい現象の直接間接の効果が日本国民全体の心理と仕事上になんらかの形で現われて来ない訳にはいかないに相違ない。その結果の善悪にかかわらず実に恐るべきことだと思われるのであった。
新宿辺で灯がつき始めたが、駒込へ帰るまで空は明るかった。夕空の下に電燈の灯った東京の見馴れた街が、どうしたのかこの時に限って実に世にも美しい、いつもとは別な街のように見えた。
このドライヴの効果は著しかった。その後二、三日は近頃にないほどに頭もからだも工合がよくて、仕事がはかどり気持が明るかった。やはり病院よりは田舎の空気が安くて利き目がよかったのである。
その後にもう一度、今度は浦和から志木(しき)野火止(のびどめ)を経て成増(なります)板橋の方へ帰って来るという道筋を選んでみた。志村から浦和まではやはり地図にない立派な道路が真直ぐに通っている。この辺の昔のままの荒川沿いの景色がこうしたモダーンな道路をドライヴしながら見ると、昔とはまた全く別な景色に見えるから妙である。道路が魔法師の杖のように自然を変化させるのである。
志木の近くの水門で釣をしている人がある。運転手が橋の上で車を止めて通りかかった老爺(ろうや)に、何が釣れるかと聞いた。少し耳の遠いらしい老人は車の窓へ首を突込むようにして、「マアはやくらいだね。河が真直ぐになったからもう何も居ねえや」と云って眼をしょぼしょぼさせた。荒川改修工事がこの爺さんには何となく不平らしい。
この日は少し曇っていて、それでいて道路の土が乾き切っているので街道は塵が多く、川越(かわごえ)街道の眺めが一体に濁っていた。
巣鴨から上野へと本郷通りを通るときに、また新しい経験をした。毎週一、二度は必ず車で通る大学前の通りが、今日はいつもとはまるでちがった別の町のように珍しく異様にそうして美しく眺められた。その事を云いだすと二人の子供も「オヤ、ほんとにそうだ」と云って同意したから、強(あなが)ち自分だけの錯覚ではないらしい。田舎の景色を数十分見て来たというだけの履歴効果(ヒステレシス)で、いつも見馴れた町がこんなにちがって見えるのである。
「馬鹿も一度はしてみるものだ」と云われるかもしれない。馬鹿を一遍通って来た利口と始めからの利口とはやはり別物かもしれないのである。外国の文化にかぶれたものが、もう一遍立帰って来たときに始めて日本固有の文化の善い所が新しい眼で見直されるということもあるかもしれないのである。
(昭和八年十二月『文芸』)
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底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月13日作成
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