ある日の経験
寺田寅彦
上野の近くに人を尋ねたついでに、帝国美術院の展覧会を見に行った。久し振りの好い秋日和で、澄み切った日光の中に桜の葉が散っていた。
会場の前の道路の真中に大きな天幕張りが出来かかっている。何かの式場になるらしい。柱などを巻いた布が黒白のだんだらになっているところを見ると何かしら厳かな儀式でもあるように思われる。このようにして人夫等が大勢かかって、やっとそれが出来上がったと思う間もなく式が終って、またすぐに取りくずさなければならないであろう。
博覧会の工事も大分進行しているようである。これもやはりほんの一時的の建築だろうが、使っている材木を見るとなかなか五十年や百年で大きくなったとは思われないような立派なものがある。なんだか少し勿体(もったい)ないような気がする。こんなものを使わなくても、何か鋸屑(のこくず)でも固めたようなもので建築材料を作ってそれで建てたらいいだろうと思う。
美術展覧会に使われている建物もやはり間に合せである。この辺のものはみんな間に合せのものばかりのような気がして、どうも気持が悪い。
そういう心持をいだいて展覧会場へ這入(はい)った。
日本画が、とてもゆるゆる見る事の出来ないほど沢山(たくさん)にある。しかしゆるゆる見たいと思う絵は容易に見つかりそうもない。どの絵を見てもどういうものか私は興味が起らない。どうしても我慢して見て、強(し)いていいところを捜してやろうという気になれないのである。これらの絵全体から受ける感じは、丁度近頃の少年少女向けの絵雑誌から受けると全く同じようなものである。帝展の人気のある所因は事によるとここにあるかもしれないが、私にはどうも工合が悪く気持が悪い。名高い画家達のものを見ても、どうも私には面白味が分らない。こういう絵を見るよりも私はうちで複製の広重(ひろしげ)か江戸名所の絵でも一枚一枚見ている方が遥かに面白く気持が好いのである。
洋画の方へ行くと少し心持がちがう。ちょっと悪夢からさめたような感じもする。尤(もっと)この頃自分で油絵のようなものをかいているものだから、色々の人の絵を見ると、絵のがらの好き嫌いとは無関係な色々のテクニカルな興味があるのである。実際どれを見ても、当り前な事だが、みんな自分よりは上手な人ばかりである。しかしその上手な点を「頭」へ矢つぎ早に受け込んで、そして一々感服する方がとかく主になってしまって、何かしらしみじみと「胸」に滲み込んでくるような感じが容易には起りにくい。
どうもみんな単にうまい絵を描く事ばかり骨を折っているのではないかという疑いが起って来る。それならば大概の絵はそれぞれの意味でうまいところがあるという事が自分のようなものでも分る。一体自分の求めているようなしみじみとした絵は、こういう処では始めから得られないにきまっているのかもしれない。
おしまいの方の部屋の隅に、女の子の小さな像が一枚かかっていた。童女は黒地に赤い縞(しま)の洋服を着て、右の手に花を一輪もっている。一目見ただけで妙な気がした。これはこの会場にふさわしくないほど、物静かな、しんみりとした気持のいい絵であると思った。
この絵には別にこれと云って手っ取り早く感心しなければならないような、一口ですぐ云ってしまわれるような趣向やタッチが、少なくも私には目に立たない。それだけ安易な心持で自然に額縁の中の世界へ這入って行けるように思う。じっと見ていると、何かしら嬉しいような有難いような気がして来る。ほんとうに描いた人の心持が、見ている自分の心に滲み込んで来るように思う。
どういう訳だか分らないが、あの右の手の何とも名状の出来ない活きた優雅な曲線と鮮やかに紅い一輪の花が絵の全体に一種の宗教的な気分を与えている。少し短くつまった顔の特殊なポオズも、少しも殊更(ことさら)らしくなくてただ気高いような好い心持がするばかりである。何かしら人の子ではなくて何かの菩薩(ぼさつ)のような気がする。
日本人としての自分にはベラスケズのインファンタ、マリア、マルゲリタよりもこの方がいい。デュラアよりもホルバインよりもこの方がいい。
専門家に云わせると、あるいは右の頬の色が落着かないとか、手が小さ過ぎるとか、色々の批評があるかもしれないが、私にはそんな事は問題にならない。何かなしにこれが本当の芸術というものだろうという気がする。
会場を出て、再び天幕張りの工事を仰ぎ見ながらこんな事を考えた。間に合せものばかりのこの竹の台に、あの童女像ばかりはどうも間に合せでない。時代や流行とは無関係に永遠に伝えらるべき性質のものではないだろうか。

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