錯覚数題
寺田寅彦
一 ハイディンガー・ブラッシ
目は物を見るためのものである。目がなければ外界の物は見えない。しかし目が二つあれば目で見えるはずのものがなんでも見えるかと言うと、そうは行かない。眼前の物体の光学的影像がちゃんと網膜に映じていてもその物の存在を認めないことはある。これはだれでも普通に経験することである。たとえば机の上にある紙切りが見えないであたり近所を捜し回ることがある。手に持っている品物をないないと言って騒ぐのは、漫画のヒーロー「あわてものの熊(くま)さん」ばかりではない。
留守にたずねて来た訪問客がだれだかよくわからない場合に、取り次いだ女中に「鬚(ひげ)があったか、なかったか」と聞いてみると、大概の場合に、はっきりした記憶がない。故長岡(ながおか)将軍くらいの程度ならばこういう認識不足はないであろうが。
知人の家の結婚披露(ひろう)の宴に出席する。宅(うち)へ帰って「お嫁さんはきれいなかたでしたか」と聞かれれば「きれいだったよ」と答える。およそ、きれいでない新婦などは有り得ないのである。しかし、どんな式服を着ていたかと聞かれると、たった今見て来たばかりの花嫁の心像は忽然(こつぜん)として灰色の幽霊のようにぼやけたものになってしまう。
「あなたの懐中時計の六時の所はどんな数字が書いてありますか」と聞いてみると、大概の人はちょっと小首をかしげて考え込んでしまう。実物を出して見ると、六時の所はちょうど秒針のダイアルになっているのである。
こういう認識不足の場合はいいが、認識錯誤の場合にはいろいろの難儀な結果が生じる。盗難や詐欺にかかった被害者の女師匠などが、加害者でもなんでもない赤の他人の立派なお役人を、どうでもそうだと言い張る場合などがそれである。
突発した事件の目撃者から、その直後に聞き取ったいわゆる証言でも大半は間違っている。これは実験心理学者の証明するとおりである。そのいわゆる実見談が、もう一人の仲介者を通じて伝えられる時は、もう肝心の事実はほとんど蒸発してしまって、他のよけいなものやまるで反対のものなどが入り交じってしまっている。写真をとっても証拠にならぬ場合のある事はアムンゼンの飛行機の行くえに関する間違いの例でも知られる。
新聞記事の間違いだらけな事はもちろん周知のことであるが、きのうの出来事さえ真実が伝わらぬとすればいわゆる史実と称するものもどこまで信用できるかわからない。ことによると九十パーセントが間違いかもしれない。
いっそのこと、全部間違いばかりと事がらがきまればかえって楽であるが、困ったことには時にほんとうなことが交じるので全部捨てるわけにゆかないから始末が悪いのである。
われわれの目も時々われわれをだますが、いつもだますと限らないで、時々は気まぐれにほんとうのものを見せてくれるので困る。そうでなければ目などはないほうがたしかに利口になれるであろう。
ハイディンガー・ブラッシと称するものがある。偏光を生じるニコルのプリズムを通して白壁か白雲の面を見ると、妙なぼんやりした一抹(いちまつ)の斑点(はんてん)が見える。すすけた黄褐色(おうかっしょく)の千切(ちき)り形(がた)あるいは分銅形をしたものの、両端にぼんやり青みがかった雲のようなものが見える。ニコルを回転すると、それにつれて、この斑点もぐるぐる回る。自分も学生時代にこれに関する記事を読んでさっそく実験してみたが、なかなか見えない。そのうちに、ニコルをやけに急激にねじ回していると、なんだか、時々ぱっぱっと動くものがあるような気がするので、それに注意を集注して見ると、なるほど、ちゃんと書物に記載してあると同じようなものが見える。いや、見えていたのである。一度気がついてみると、どうしてこんな明白なものが、今まで見えないでいたか、ほとほと不可解に思われるほどにそれほどに明瞭(めいりょう)に見えるのである。そうなると、今度は、別の目的でニコルをのぞく時にでも、これがあまりによく見え過ぎて目的とする他の光象を観察する邪魔になるのである。故野口英世(のぐちひでよ)博士が狂人の脳髄の中からスピロヘータを検出したときにも、二百個のプレパラートを順々に見て行って百九十何番目かで始めてその存在を認め、それから見直してみると、前に素通りした幾つもの標本にもちゃんと同じもののあるのが見つかった。
ハイディンガーがこの現象を発見してまもなく、ヘルムホルツがこれをたしかめようと思って実験したがどうしても見えなかった。それから十二年後になって、ある日ひょいとニコルをのぞいて見たらただの一ぺんでこれが見つかったそうである。人により、時によりこれの見え方に異同のあるのも事実らしい。
これは眼底網膜の一部が偏光で照らされた時に生じる主観的生理的現象である。「幽霊」などと似たところもあるが、それよりはもう少し普遍的な存在である。
これとは全く縁のないことではあるが、時代思想の「かたより光線」で照らされた多数の人の心の目にきわめてはっきり見える主観的生理的影像が、為政者や教育者の目に見えないことがあると、いろいろな重大な騒ぎが起こったりする。昔からの思想争闘弾圧史はみんなそれから来ている。ある時はまたXの方向に振動する偏光を見ている一派と、Yの方向に振動する偏光を見ている他の一派とがけんかをする。言う事が直角だけちがう。しかし、ちょっとニコルを回してみれば敵の言いぶんは了解されよう。かたよらぬ自然光で照らせば妙なブラッシの幽霊などは忽然(こつぜん)と消滅するであろう。「心境の変化」で左翼が右翼にまた右翼が左翼に「転向」するのも、畢竟(ひっきょう)は思想のニコルが直角だけ回ったようなものかもしれない。使徒ポールの改宗なども同様な例であろう。耶蘇(やそ)の幽霊に会ってニコルが回ったのである。しかしどちらへ曲げても結局偏光は偏光である。すべての人間が偏光ばかりで物を見ないで、かたよらぬ自然光でも物を見るような時代がもし来れば、あらゆるデマゴーグは腕をふるう機会を失うであろう。

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