曙町より(二十五)
六月九日の日曜に家族連れで上野精養軒の藤棚の下へ昼飯を食いに行った。隣のテーブルにも家族づれの客が多い。小さな子供のいる食卓の上には子供の数だけのゴム風船が浮游(ふゆう)している。うちの子供らも昔はよくこうした所で風船をもらった時代があったが、今はもうみんなおとなになってしまって今日は新しい夏着夏帽夏化粧である。蓄音機のダイナミックコーンからはジャズや流行小唄(はやりこうた)が飛び出しておりからの鐘楼の時の鐘の声に和している。藤棚の下には中央の噴水をめぐりビーチパラソルの間をくぐってさわやかな初夏の風が吹いている。妙に昔のことが想い出される。
精養軒の玄関にボーイが一人立って人待ち顔に入り口のほうをながめている。このボーイはここではもうずいぶん古い古参である。自分など覚えてからこのかたずっと勤続しているようである。今の世にこういう何十年一日のごとき人を見るとなんだかたのもしいようななつかしいような気がする。電車の車掌などにもずいぶん古いのがいるがそんなのを見ても同じような気がする。こんな人はやはりどこかいいところのある人間であろうと思われる。
上野から円タクを雇って深川の清澄公園(きよすみこうえん)へ行って見た。アルコウ会という会と、それから某看護婦会との園遊会でにぎわっている。関東震火災の数日後このへんの焼け野を見て歩いたとき、この庭園の周囲の椎(しい)かなんかの樹立ちが黒焦げになって、園内は避難民の集落になっていた、その当時の光景を想い出した。あの震災のときにはまだ生まれていなかったような年ごろの子供らがおおぜい遊んでいる。
清洲橋(きよすばし)の近くの一銭蒸汽の待合所を目当てに河岸(かし)を歩いていたら意外な所に芭蕉庵(ばしょうあん)旧跡と称する小祠(しょうし)に行き当たった。そうしてこの偶然の発見のおかげで自分の今まで描いていた芭蕉庵の夢が一度に消えてしまった。
待合所で船を待っていたら、退屈しているらしい巡査が話しかけた。仏国映画に出るプレジャンという俳優に似た顔をしている。「これから土左衛門(どざえもん)が多いですよ」という。七割は自殺者だそうである。新聞には出ないが三原山よりは多いという。
一銭蒸汽の中で丸薬の見本を二粒ずつ船客一同に配っておいてから、そろそろと三百何十粒入りの袋を売りだす女がいた。どこへ行っても全く油断のできない世の中である。
言問(こととい)まで行くつもりであったが隅田川の水の臭気にあきたので吾妻橋(あづまばし)から上がって地下鉄で銀座まで出てニューグランドでお茶をのんだ。
近ごろの大旅行であった。舟車による水陸の行程約七里半、徒歩ならゆっくり一日がかりのところである。
自分の生まれない前に両親が深川西六間堀(にしろっけんぼり)に住まっていたころ、自分のいちばん末の姉を七歳で亡くして休日のたびに谷中(やなか)の墓地へ通ったという話を聞かされたことがあった、それを今日ふいと思い出した、ほとんど一日がかりの墓参りであったらしい。
なつかしや未生以前(みしょういぜん)の青嵐
(昭和十年七月、渋柿)
曙町より(二十六)
風呂桶(ふろおけ)から出て胸のあたりを流していたら左の腕に何かしら細長いものがかすかにさわるようなかゆみを感じた。女の髪の毛が一本からみついているらしい。右の手の指でつまんで棄てようとするとそれが右の腕にへばりつく。へばりついた所が海月(くらげ)の糸にでもさわったように痛がゆくなる。浴室の弱い電燈の光に眼鏡なしの老眼では毛筋がよく見えないだけにいっそう始末が悪い。あせればあせるほど執念深くからだのどこかにへばりついて離れない。そうしてそれがさわった所がみんなかゆくなる。ようやく離れたあとでもからだじゅうがかゆいような気がした。
風呂の中の女の髪は運命よりも恐ろしい。
(昭和十年九月、渋柿)
曙町より(二十七)
子供のときから夜具といえば手織り木綿(もめん)の蒲団(ふとん)にあまり柔らかくない綿のはいったのに馴らされて来たせいか今でもあまり上等の絹夜具はどうもからだに適しない、それでなるべくごつごつした紬(つむぎ)か何かに少し堅く綿をつめたのを掛け蒲団にしている。
今度からだが痛む病気になって臥床(がしょう)したまま来客に接するのにあまり不体裁だというので絹の柔らかいのを用いることにした。ところがこの柔らかい絹蒲団というやつはいくら下からはね上げておいてもちょうど飴(あめ)か餅(もち)かのようにじりじりと垂れ落ちて来て、すっかりからだを押えつけあらゆるすきまを埋めてしまう。それでちょっとでも身動きしようとするとこの飴が痛むからだには無限の抵抗となって運動を阻止する。蠅取(はえと)り紙(がみ)にかかった蠅の気持ちはこんなものかという気がする。
天網のごとく、夢魔のごとく、運命の神のごとく恐ろしいものは絹蒲団である。
(昭和十年十一月、渋柿)

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