なんと・・・生まれて初めて友人を部屋に招いた。
実際には、一緒に片づけを手伝ってくれるという友人などを、
以前住んでいた部屋部屋で数人は招き入れたことはある。
(手伝ってくれた友人もいたが、あるときは寝ているだけの友人もいた・・・)
けれど、「友人を純粋に自宅に招いた」というのは初めてのことになると思う。
本当は、ごく最近、
「1年後、この友人を綺麗にした自宅に必ず招き入れる」
という目標を思いついたばかりだった。
それなのに、まだまだ片づけも序盤のうちの序盤というところで呼ぶことに相なった。
ともかく、友人を招き入れるため、リビングをできる限り綺麗にした。
「綺麗にした」というのは、本来のお片づけプラス、
ごちゃごちゃっとそこらにあるものや、
積み重なっているものをダンボールに入れたり、
なにかがすでに入っているダンボールを隣の部屋に移動させたりすることである。
たとえそのままリビングにあっても、
「ごちゃごちゃ」はダンボールに入れておくだけで大分マシになる。
・・・マシになって見えるとわたしは思っている。
出てくるホコリや汚れを同時に掃除しながら、
色んなものを移動させる。
こういう状況を見て、
「右から左に移動させただけ」と揶揄する人がいる。
確かにその通りなのだけど、
今回それをやって感じたこと。
これまでもそれができたにもかかわらず、
「ダンボールに入れてしまったら、
片づけるべきものが目から遠ざかってしまって、
逆に片づけを忘れてしまいそう」
という懸念があって、なにもかも積み重ねっぱなしだった。
じゃあ、そうやって毎日一応は目に触れる形にしておいて、実際片づけられたか?
というと、実は全然そうではなかった!!!
ということに昨日まざまざと気づいたのだった。
懸念しながらも、
そうするよりほかないので遂行することにして、
ダンボールを作って、
そのダンボールのなかにごちゃごちゃを詰め込んでいるとき、
いかに色んなことが頭でうごめいたかということが印象的だった。
色んなことというのは、
「あ、こんなものあったんだ」
「あ、これはいらないな」
「あ、期限切れてる」
「あ、これあったよなあ、あのとき迷ってたけどいらなかったなあ」
などなど。
目に見えるように置いていると言っても、
端切れが見えているだけでそれがなんなのか把握できていなかったり、
部屋の一部として同化していたり、
積み重なって完全に見えなくなっていたりして、
見ていないのと同じことだった。
右から左に動かすとき、
脳は働いている。
そこで新しい考えが生まれることもある。
捨てようとか、今利用しようとか、あげようとか。
友人は「別に汚くないんじゃない?」といってくつろいでくれた。
まあ、お世辞が入っているかもしれなくても、
ずるっこしているのを加味しても、
2〜3日でわたしがここまでこられたのはまさに奇跡的としか言いようがない。
そのあと、上のごちゃごちゃがそっくり綺麗になくなったテーブルは、
なんとも気持ちがよく、
色んなことの効率が上がるメリットももたらしてくれているし、
気持ちの上で大きな違いがあることが分かった。
ダンボールに詰めたものをまた元の位置に戻そうとは思わなかった。
いつかも、こんなに綺麗なテーブルだった日のことを思い出した。
ダンボールに入れていても、
入れずに目に触れる形で積み上げていても、
いずれにせよ、それに触って直面しなければ意味がなかったことに気がついた。
右から左へ移動させることもお片づけへの大きな一歩だと思うので、
どうせそんなことやってもからかわれるだけと忌み嫌わずに、
やったほうがずっといい。

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