わたしはコーヒー派。
大人になるまでは好きじゃなかったのに、
働き始めて、職場でみんな飲んでいたので、
飲み始めてからずっと飲むようになった。
スタバの真ん中のサイズくらいのを1日1杯飲むくらいだったけど、
3〜4年くらいか前から、本当はコーヒーをやめたかった。
コーヒーをやめて、
その代わりに飲むとしたら、紅茶にしたかった。
それなのに紅茶の薄い味はわたしを飲みたい気持ちにさせてくれなくて、
コーヒーか紅茶の選択を迫られると、答えはいつもコーヒーだった。
コーヒーを飲み始める前までは、紅茶を選んでいたのに。
わたしの仲のいい友人たちはみんな紅茶派で、
一緒にいるとコーヒーを頼むわたしの隣でいつも紅茶を選んでいる。
「ハイティー」という習慣のある国で、
それをするのにもっとも人気のあるホテルの美しいラウンジで
注文を尋ねられたとき、
わたしはついに紅茶を頼んだ。
小さくて可愛いケーキが三段くらいのトレーにたくさん並んでいて、
それらと一緒にいただく紅茶は、得も言われぬほど美味だった。
その日その場所その瞬間、わたしは紅茶に開眼した。
開眼したといっても、プロとかマスター級になりたい、
みたいなことではなく、
ただ、紅茶が好きというだけで、
ただ、選ぶのはコーヒーではなく紅茶になるということだけだけれど。
いつもの場所に戻って、
自宅にあって使っていなかったティーパック
(いつか飲みたい、紅茶を選びたいからあったわけだけれど、使っていなかった)
をときどき使い始めた。
相変わらずコーヒーもときどき飲んでいた。
まもなく3月11日が来て、
それからの日々は通常とは違うものになった。
紅茶を飲む機会に恵まれなかった。
代わりに、コーヒーを飲むことが習慣になったきと同じく、
インスタントコーヒーを飲む機会に恵まれた。
元の生活に戻ったとき、
とてもすてきなティーポットと、
とても高価な紅茶の茶葉をプレゼントしてもらった。
いつもなら後生大事にとっておくそれらを、
その週のうちには使い始めた。
美しいポットに広がる紅茶の色は見ていてこころがときめく。
そしてその素晴らしい香り。
それから今日までわたしは紅茶しか飲んでいない。
底をついてきた上等の紅茶の代わりに、
昔もらった、それもおそらくそれなりに上等のはずの小さな缶入りの紅茶を開けてみた。
ブレックファスト。
まだ、賞味期限には到達していない。
けれどその香りは、ついこの前にもらった、
なくなりかけの紅茶とは似ても似つかぬほどに香りがなかった。
次の日は、もうひとつある別の小さな缶入りを開けてみた。
アールグレイ。
上質のダージリン茶葉にシシリー産の爽やかベルガモットの香り。
こちらは、多分もっと上等だったんだろうと思うけれど、
まだとてもいい香りで、飲むたび幸福感を味わえた。
フレーバーティーは全般的に苦手だったわたしが、
普通に美味しいと思って飲んでいる、
この今のわたしはとても不思議な存在だけれど、
きっと昔から存在しうるわたしだったのだろう。
思ったのは、このふたつの紅茶はそれぞれ、
一つ目のもきっとちゃんと美味しかったはずだし、
まだまだ全然美味しいこのアールグレイは、
もらったすぐは想像できないくらいもっと美味しかったのではないかと。
とはいえ昨年のわたしでは、
その味を愛でることは叶わなかっただろう。
今のわたしにはできても。
今のわたしにとっては、とてももったいないことをしたと思うけれど、
紅茶に見向きもしないころのわたしにとっては、
その価値さえ分からないのだから、もったいないかどうかも分からない。
実際いくつかは友人にあげてしまっていた。
自分にそのときは必要がないものがあることも、
こんなチャンスに恵まれるので素晴らしいことだと思う。
けれど、出合って、それを愛したら、
それを十二分に堪能することこそが、
ものに対する愛情表現なのだと知った。
人に対しても同じだけれど。
生活の中で起こるとてもささいなことが、
最近殊にわたしにそんなことを教えてくれる。
それはやろうと思ったことを、そのままやった結果。
まだまだそれができにくい分野もある。
けれど、確実に、何かが変わってきている。
そして自分自身の行動が変わってきたのが分かる。
不思議なことに、
こんなふうにものを愛すると、
自分の人生まで愛しくなってくる。

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