このひと月の間、いろんなことがあった。
もっと考えてみれば、この6〜7ヶ月の間、実に様々ことがあった。
わたしが体験したすべてのことを、
きっと他の人が体験すれば、普通ならボロボロになっているんだろうと思う。
自分だけなんでこんなことばかり起こるのだろう、
自分はなんて不幸だろうと苦しみのうちに生きている可能性が高い気がする。
ということをたった今思いついた。
だけど、本当にそんなことになるのかは、実はあまりうまく想像ができない。
なぜならわたしは一切そんなことを感じたことがなかった。
今もまったく感じない。
なんという幸福だろう。
むしろ、大きなことが起こるそのたびごとに、さらに、
生き生きと人生を生き始めた。
毎日が輝いて見えた。
わたしは自分の内側から湧き起こるさらなる強大な力を得た。
感謝に満ち溢れる毎日が盤石なものとなった。
起こったできごとは、ほとんど普通じゃないことや、
他の人から見てみれば不幸としか言いようのないことでも、
わたしにとってはすべて奇跡に見えた。
わたしが自然と導かれる方向へ当たり前に進んでいるだけで、
新しい扉がすべて自動的に開いて、
新しい世界に自動的に自然に当たり前のように誘われる。
ただひたすら、楽。
なにもしていない。
自然。
これ以上なく。
そして、自由。
わたしはどんどん自由になった。
しかも思い描いた世界が、
そのたびごとに近くなることに気づく。
根拠が見いだせないけれど、
はっきりと分かるこの感覚。
こんな感じ、みんなも経験しているのだろうか?
まだ起こっていないのに、はっきりと分かる。
見えるみたいに。
大量の片づけをしているその途中で、
昔書いたルーズリーフ3枚分の文章を見つけたのは一昨日。
覚え書きのようなものだ。
20代の前半に書いたものだと思う。
当時まだ鮮明に覚えていた14歳のころのある時期のことを書いたものだった。
そのころのことは今もまだ覚えているけれど、
今よりもずっとその年齢に近かったころのわたしの記述はとても新鮮で、
記憶がより鮮やかに呼び起こされるのが分かった。
そのときもまるで今みたいに、
起こる前のことを分かっているわたしがいた。
まだその結果を知りもしないのに、
完全に、確実に、はっきりとその結果が分かっている。
この不思議な感じは、
少なくとも、14歳のころにも経験していたのだ。
果たしてそのことは、現実のこととなってこの世に現われた。
結果を知らなければ、
それを知ったとき、喜びや、嬉しさにもっと心打ち震えていたかもしれない。
けれど、わたしはその結果をもうすでにはっきりと知っていたので、
嬉しいことは嬉しかったけれど、
自分の中では結果を知ることを経験したあとに起こったことだったので、
それはごくごく当然のことで当たり前のことで、
すでに分かっていたことに、なんの驚きもなかった。
あの感覚が、今、再びわたしの中にある。
14歳から今日までの間にも、
色んなことが思った通りになったけど、
それはごく普通の、きっとそうなるんだろうな、という、
そういう感じに過ぎなかった。
けれど、今のこの感じは、
14歳の時みたいに、もうはっきりと分かっている。
知っている。
この不思議な感じをどう伝えられるだろう?
まだ起こってもいないのに、
知っていることが、自分でも不思議でたまらない。
不思議でたまらないのに、やっぱり知っているんだ。
分かっているんだ。
わたしを取り囲むあらゆるすべてがそれを証明している!
わたしに次々と起こることすべてがそれを証明している!
わたしが知っていると感じるたび、
分かっていると気づくたび、
今がもう、そのことが起こってしまったあとなのか、
それともまだ起こっていないときのことなのか、
分からなくなる。
そしてただひたすら溢れてくるのは感謝の気持ち。

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