人生を計画する。
言葉にするのはいとも容易いことなのに、
実際にこれを計画するということはこれ以上なく難しい。
それはなぜか?
自分の人生を、未来を、想像してみるのが怖いからだと思う。
怖いから考えたくないとか、
「怖い」を「面倒くさい」に変換して、考えたくないとか、
何とかなるさ、そんなこと今から考えてどうするんだ、と嘯いてみたりとか。
いいことばっかりに決まってると思う楽天家も多いだろうけど、
単に恐怖心ゆえに導き出された反応がそれ、ということも少なくないだろう。
なにを隠そうわたしがそれだから。
以前、そういった計画に関するヒントを提供してくれている本を
数冊読んだことがあった。
心が動かされるものがあったし、
内容はそれなりに知識として得ることはできたものの、
実際に取り入れるまでには至らなかった。
その理由は、「今のわたしには無理だ」と思ったからだと思う。
大まかに言えば面倒くさいとも言えるけど、
実質的には、当時の自分ではそんなところまで「詰めていけない」ことを、
自分自身でよく知っていたのだろう。
数年後の今、モノの最適化もずいぶんと進み、
これから先のことを以前よりも具体的に考えるようになった。
計画法に関して、本で得た知識は「参考までに」頭に残ってはいたが、
これまでのところ、自分にできそうにないやり方ではなく、
自分にできる方法を自分で見つけ出すことが肝要だと思ってきた。
ところがここに来て、わたしが今やろうとしていることは、
その何冊かの本を想起させることばかりだということに気づき始めた。
本で得た方法は自分のやり方ではないと無視して、
数年かけて試行錯誤、自己流の方法に改善に改善を重ねたあげく、
辿り着いたところはなんとその本に出ていたのと同じような方法だったのだ。
わたしはその数冊の本を引っ張り出してきた。
その本の一冊の最後のページには、未来のわたしへのメモ書きがあった。
「部屋が片づいたら読んで実践する」
・・・・・・。
あのときのわたしの気持ちが分かる気がする。
部屋があんなに散らかっていては、あんなにモノで溢れていては、
計画どころではないと。
今のわたしが、あのころと同じ状況に置かれたとしてもそう感じるだろう。
この本たちはわたしのやり方とは違うところにあると認識していたのにもかかわらず、
今の自分が自然のうちにこの本の方法に辿り着いていることにただただ驚くばかりだ。
そしてわたしはまた、これらの本を再読し始めている。
今やその内容は「今の自分」にしっくり馴染むものであり、
その方法でやるのが普通であると思える。
実際今現在やっていることの補強に使うという段階ですらある。
外が散らかっていたら、内まで散らかっているものなのだ。
そのことがよく分かった。
この数年のうち、いろんな意味で考え方が変わった部分も確かにある。
けれど、この点においてわたしを変えたのはそれではない。
「部屋の最適化が進んだこと」
まさにそれが、それだけが要因だったと言ってもいい。
外と内が通じているというのは、こんなところにも言えたのだ。
外側が綺麗になってきたことは喜びのひとつだが、
内側が整理されていくことのこの快感は言葉ではとても言い表せない。

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