ハイ、つづきをやりました
少しです、今日も。
昨日も似たようなこと書いていますが・・・、
ホント少しずつでいいんですよね。
むしろ少しずつがいい。
完璧主義の壁を崩せるようになってきた気がします。
塵も積もれば山となる・・・って言葉の意味そのままに取ると、
物理的には逆になりますが、まさにその通りです。
今までは片づけないことが重なって山になってしまっていたわけですね。
いつか片づく日・・・。
その日が躍動して近づいてきているのをひしひしと感じます。
物に圧迫されて生きていたどのときも、
いつか片づくその日は来るのだと強く信じていました。
ひょっとしてひょっとしたら一生片づかないかも・・・。
なんて不安に思ったことは実はこれまで一度もなかったりします

いや、ひょっとしたら一瞬くらい思うこともあったかもしれませんが

、
次の一瞬にはんなこたぁないと思い直していたと思います。
必ず来るんだけど、それが早いか遅いか。
もうちょっと究極の話にしてみると、
そのときまで寿命があるかないかという話です。
多分、諦めちゃうと、そこで終わっちゃうんですね。
バカでもいいと思うんですよね。
バカにされても。
自分だけは自分を信じててあげる。
それができないと、人生はつらいものになってくると思います。


明日の予定


PC系のものお片づけ(つづき)
存在意義
ここ数日生まれて以来初めて思い浮かんだことがあります。
それは人の存在意義についてのひとつの考えです。
大切なもの、素敵なもの、大好きなもの。
自分にとっては最高にスペシャルなもの。
そういうのって大切に大切にしまっておきたい気持ちがあります。
誰にも秘密にしておきたいと思うくらいのこともあります。
そうしておくのもいいと思います。
けれど、自分にとってそういった素晴らしいものの存在が、
他人にとってはまるで価値のないものである場合も多いです。
自分にとっては隠したくなるくらいすごいことで、
誰にも教えたくなかったけれど、
実際もったいをつけて誇らしげに他人に教えてみたら、
ふ〜ん、くらいの存在でしかなかったり。
拍子抜けですよね。
なんだったんだろうって。
ただ、たくさんの人にとって、魅力的なことも数多くあると思います。
少数の誰かにとっては、ということも。
だったら、その、最高に素晴らしいものを、
自分の中だけで埋もれさせてしまったらもったいないと思うんです。
この世に生まれてきて、それを知っていて、
だけどひた隠しにして生きて死んでいく。
せっかく存在したものが、自分の中だけで完結してしまうわけです。
それも悪いとは言いません。
でもやっぱりすごくもったいないなって思います。
ひょっとしたら、それを周りに伝えることが、
その人の大きな存在意義になり得たのかもしれないから。
思考・思想的なものであれ、才能であれ技術であれ、
物理的なものであれ、共有することの大切さを、
わたしはこの数日間に体感的に知った気がします。
自分の内にどんなに素晴らしいものがあったって、
それが表に出なければ、そのまま終わってしまいます。
共有したくないというのはそういうことです。
自分だけの特権で、自分だけの楽しみで、
自分の中ではすごい大きな存在で。
自分の中にある王国で楽しむのも悪くはないですが、
それを生涯一度でもいいから外に出してみることで、
人は自分を試すことも、人生を余すことなく生きることも、
社会に貢献することも、
人間としての生をよりよくまっとうすることもできると思うんです。
「自分の中で素晴らしく大切だったものは、
外に出してみたら実は大した価値がなかった」
その事実を目の当たりにするかもしれない、
という恐れが人の潜在意識の中には大いに存在すると思います。
けれど、ここを乗り越えることに重要性を感じます。
わたしは乗り越えていきたいです。
そしてわたしの存在意義を追求していきたい。

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