一昨日の園の理事会のあと、自分の今の仕事や宇宙関係の活動の状況と、2010年までに自分の進む道に白黒つけると約束したけれど、スキル的にも業界的にも短期で結果を出すのは難しいこと、今後の人生計画等について親や事務長さんなどに話した。
うまくいえなかったけど、クリスチャンの理事会書記のおばさんに、「人生の目的って「真理の探究」でしょ」とさらっと言われた。
そうだ、「私が道であり、命であり、真理である」とイエスは言ったのだ。現代キリスト教や聖書の一部は理論的に明らかに受け入れがたいところもあるけれど、私はこの道についていくとヨルダン川で誓った。仏教では釈迦は世界の真理としての法(ダルマ)を悟った。この混沌とした現代に、現実の中で真理を求め続けて生きていかなければならないのだ。
そして昨日、ある体験から、真理に少し近づくきっかけを得た気がした。
自分が生まれてきたその時がどれだけの喜びだったかということを、ある人が感じてくれた。
挫折していた時は、それすらも否定しがちだった。立ち直って以降も、自分の自己中心的で攻撃的な性格などから、人との関わりでちょっとしたトラブルもあったこともあった。
でも、そんな私を含めて、その奥に人間の本質的な生を感じてくれて信頼してくれる友がたくさんいる。
ルソーの言うタブラ・ラサ(白紙)の状態の私が生まれたことを少なくとも家族中が喜び、それ以前に神は、大いなる愛でこの世に送り出してくれたのだ。
だから、直していかないといけない部分は当然あると思うけど、ありのままの自分をぶつけ、実践を通して真理を探究していこう。
現代の子供たちは、大人になるにつれて、その生まれてきた喜びを感じられなくなってしまうから、生き苦しいのだろう。
勘ぐりすぎかもしれないが、私の過去の罪や業(カルマ)を感じさせるようなあるブログも見てしまった。
人生は苦であるとも釈迦は言った。
その苦を乗り越え、昇華していくための命の輝きを、思い出として安全基地の中で根っこに植えつけるのが、幼児教育の役割な気がした。
少なくとも私には、未来に困難に対峙した時に、その喜びがどんなに自分が揺らいでも原点で揺るがない支えになると思えた。
そうすれば、自分のためや、人から評価されるためでなく、神から本当の評価をされるために、自分のいただいた命を惜しみなく使うことが出来るのだろう。
真理の探究への道は再生を経て今、スタートラインにたった。
地球を5回も離れたロシア人宇宙飛行士のインタビュー
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070612/12063
で、
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——自分自身と宇宙についてどう思いますか。
ドゥザニベコフ氏 興味は宇宙の成り立ちだけに限りません。「なぜできたのか」という部分が知りたいのです。創造主の目的は何だったのか。なぜ創造主は人間をこれほどおかしな存在にしたのか。私の誕生が自然や環境に何の恩恵ももたらさないとしたら、私たち人間が期待されているものは何なのか。将来にとって、重要なことは何なのか——。私は、この点から考えても人間はおかしいと思います。自然から取ることを学ぶばかりで、返すことを知らないからです。
という受け答えがあった。
抽象的なことだけを考えていても始まらない。実践を通して、この世界に、未来への襷をつないでいくことを決意した週末でした。

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