黒澤明監督の
「羅生門」は1950年に大映の映画である。これが翌年のヴェネチア国際映画賞で最高の金獅子賞を取る。52年にはアカデミー賞最優秀外国映画賞を取る。これを契機に日本の監督が世界を視野にいれた、賞を取りにいく作品を作るようになる。
この映画の全体を覆っているのは、1915年芥川龍之介が発表した
「羅生門」であり、内容は、同じく芥川が1921年に発表した
「藪の中」である。
「黒澤明全集3」(岩波書店刊)に収められている「羅生門」のシナリオ(橋本忍・黒澤明)の書き出しを以下にみてみよう。
ー1 羅生門
猛烈な夕立に煙ったように見えるその全景。
雨宿りをしている人影が二つ小さくかすかに見える。
その二人―一人は旅法師、一人は杣売
二人とも石畳の上に腰を落として、石段の上の叩きつけるような雨足を眺めたまま、 何かじっと考え込んでいる。
「わからねえ・・・・さっぱりわからねえ」
杣売がポツンと言う。
旅法師は、その杣売の横顔をチラッと見るが、また視線を雨足に戻して動かなくなる。
その衣の袖から、ぽとり・・・ぽとり、水滴が石畳におちるー
「わからねえ」何が「わからねえ」なのか・・黒澤明ご本人の言葉で答えてもらおう。
ー「羅生門」は公開後、国内でも国外でも、しばしばラストのきこりが捨て子を拾うエピソードがとってつけたようなヒューマニズムで不自然ではないかという批判を受けた。これに対してやはり黒澤明は次のように答えている。
黒澤 僕はあれでいいと思うし、人間ってそんなものだと思う。「羅生門」の原作の「藪の中」は、芥川さんの嘘だと思うんですよ。あれが正直に自分のものだったら生きてゆけないでしょう。芥川さんはもっと早く自殺したろうと思いますね。よくてらって人間を信じないと言うけど、人間を信じなくては生きてはゆけませんよ。そこをぼくは「羅生門」で言いたかったんだ。つきはなすのは嘘ですよ。文学的にあまいというけれど、それが正直ですね。人間が信じられなくては、死んでゆくよりしかたがないんじゃないかしら・・・(「黒澤明全集3」(岩波書店刊)の中、佐藤忠男氏著「作品解題」より抜粋)ー
この映画を観たのは、まだ学生時代で映画館ではなかった。荒川沿いの区民会館だったと思う。映画館のように時計の数字表示の明かりや非常口を示す緑の色がなかった。二階の広い会議室のようなところで、暗幕を引いて太陽を遮断した中で観た。昼か夜か、ここがどこなのか見失うほど暗い中で、旅法師の千秋実、杣売の志村喬の静けさと三船敏郎と京マチ子の迫力の計算されたバランスに圧されもしたし感動もした。だから係りの人が、暗幕を開けたあとでも明るい中少しぼんやりしていた。やっと会館を出て、荒川の土手を歩いた。夕日が川面に散っていた。川で溺れる人を助けるのは、助けないと自分が後悔するからだと言ったのは芥川だった。そういう芥川こそ人間を一番信じていたのだろうと思った。それは肯定もしたが、すぐに否定もした。「いやまてよ」と。結局、私の心に人間とは「わからねえ」が、面白いほど何度も繰り返されて、まっすぐ続く荒川の土手を歩いたのを昨日のことのように今でも覚えている。

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