明日6月9日は、
有島武郎の命日である。筆者の独断と偏見で、今日と明日、有島武郎を特集します。
jukiさん、うにさんファンのみなさまごめんなさい。
1878(明治11年)東京都水道橋で有島武の長男として生まれる。父は島津氏の一支族。大蔵省に勤める。武には五男二女があった。次男は有島生馬であり、四男は里見とん(漢字が非表示)である。
1896(明治29年)学習院の中等科を卒業後、高等科に入るも一年で中退し、札幌農学校に入る。
1899(明治32年)友人の影響でキリスト教に感動する
1906(明治39年)処女作「かんかん虫」を書く
1907(明治40年)外遊。東北帝大農科大学の大学講師となる
1909(明治42年)神尾安子と結婚
1911(明治44年)長男行光(後の森雅之)が生まれる
1916(大正 5年)父武(75歳)と妻安子(28歳)亡くなる。講師を辞し、作家生活に入る。
1923(大正12年)波多野秋子と軽井沢の別荘にて自殺
(「有島武郎集」筑摩書房刊 の年表を参考にしました)
有島武郎の途切れることのない文章の上手さは、天下一品だと思う。的確な言葉で綴られた文体に惹き付けられながらも、どうも近づきがたいものがあるのだ
「宣言一つ」
ー私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対にできないから、ならしてもらおうとも思わない。第四階級のために弁解し、立論し、運動する、そんなばかげきった虚偽もできない。今後私の生活がいかように変わろうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは・・−
「生まれ出づる悩み」
ー君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈るー
こういう言葉を読んで天邪鬼の私は、退いてしまう。そこが私の有島の作品を遠ざけた一因でもあるのだが。
遠巻きに有島をみているからこそ、私は有島の位置を考えることはできる。まるで壇上のせりふである。壇上にいることを、壇上から降りることはできないことを有島は知っていた。どんなに言葉を尽くそうとも聴衆の中に入っていけない。うわべだけの顔で中に入ることはできても、聴衆の心の中に入ることはできない。中に入ることができないのなら外にいるしかない。ゆえに彼はどうしたか、聴衆である人間の絵を描こうとしたのだ。文章で。
有島武郎という人は、正直だから、この「生まれ出づる悩み」でもK君のことをすっかり理解した風には書かない。K君の話を聞いて、K君と父親の生活を細やかに描写する。
「カインの末裔」の仁右衛門の心の闇を有島はありきたりの言葉で語らない。一本の大木に鑿を入れ、刻み込むように、風景の中で生きる人間として描写をする。描き足りないことはない、描きすぎることもない。まるで画家が、聖書から教会の天上絵を描くように。
タイトルとした短歌は、有島武郎が死ぬ数日前に書いたものだったと思う。紫陽花の時期になると私はこの歌を思い出す。大正12年の軽井沢の別荘の庭に咲く紫陽花の色を有島はみることはなかった。また明日・・

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