私はダイヤモンドに立つて、全身に力をこめて強くノツクバツトを振りました。私の打つた球《ボール》は高く/\初夏の青空へ飛びました。私はその球《ボール》を静な心で見上げてゐました。飛むだ球と一緒に私の悲しみも消えてゆくやうにさへ思はれました。私は河田のことを忘れたのではありませんが、そんな少さな悲しみよりも、はるかに大きなある力をその刹那にふと感じたのでした。
「この分では試合に出てきつと勝つて見せるぞ。」と私は胸に呟きながら、その次の球を更に力強く打ち上げました。球は、また高く、澄むだ空にコーンと鳴つて飛むでゆきました。
私は、我がままな二つの念願を抱いている。生きている間は出来るだけ感情を偽らずに生きたい。これが第一の念願である。言いかえれば、好きなものを好きといい、嫌いなものを嫌いといいたい。やりたい事をやって、したくない事をしないようになりたいのである。そして第二の念願は、死ぬる時は端的に死にたい。俗にいう『コロリ往生』を遂げることである。
十月八日 ――晴。
早朝護国神社参拝、十日、十一日はその祭礼である、――暁の宮は殊にすが/\しく神々しい、なんとなく感謝、慎しみの心が湧く、感謝、感謝!感謝は誠であり信である、誠であり、信であるが故に力強い、力強いが故に忍苦の精進が出来るのであり、尽きせぬ喜びが生れるのである。
皇室――国への感謝、国に尽くした人、尽くしつゝある人、尽くすであらう因縁を持つて生れ出る人への感謝、母への感謝、我子への感謝、知友への感謝、宇宙霊―仏―への感謝。――
一洵老が師匠の空覚聖尼からしみ/″\教へてもらつたといふ懺悔、感謝、精進の生活道は平凡ではあるがそれは慥かに人の本道である――と思ふ、この三道は所詮一つだ、懺悔があれば必ずそこに感謝があり、精進があれば必ずそこに感謝があるべき筈である、感謝は懺悔と精神との娘である、私はこの娘を大切に心の中に育くんでゆかなければならぬ。
芸術は誠であり信である、誠であり信であるものゝ最高峰である感謝の心から生れた芸術であり句でなければ本当に人を動かすことは出来ないであろう、澄太や一洵にゆつたりとした落ちつきと、うつとりとした、うるほひが見えてゐて何かなしに人を動かす力があるのはこの心があるからだと思ふ、感謝があればいつも気分がよい、気分がよければ私にはいつでもお祭りである、拝む心で生き拝む心で死なう、そこに無量の光明と生命の世界が私を待つてゐてくれるであろう、巡礼の心は私のふるさとであつた筈であるから。――
夜、一洵居へ行く、しんみりと話してかへつた、更けて書かうとするに今日は殊に手がふるへる。
「十月七日 曇―晴。人には甘えないつもりだけれど、いづれまたすみませんが――とお願ひすることだらう、あゝあゝ。」
所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。
(昭和十五年二月、御幸山麓一草庵にて 山頭火)
(昭和十五年四月刊)
しかしながら、雪といへば、こんな便利なこともありました。
私が長野の町の小さな病院で、熱のある患者の看病をしてゐる時でした。東京へんだと熱のある場合、病人の頭や胴をひやすには、きまつて、氷をつかひますね、ところが、信州では氷の袋はつかひますが、中に入れるのは、氷ではなくて、雪なのです。あの堅いかたい雪なのです。
一々氷屋をよばなくとも、冬であれば病院の庭にでも、どこの空地にでも、雪のないことは珍らしいからです。
小さな病院の庭が、この雪を掘る人々で、にぎはふ光景を、私も日にいくどか眺めました。
自然の中に暮してゐる人々は、自然のお蔭で、色々の楽しみを持つことも出来ますが、又はげしい自然と、一と冬の間、こんなふうに戦はねばならないのです。
五月三十日 梅雨日和。
句稿整理。
螻子居を訪ねる、それから黙壺君に逢ふ、マア/\ヤア/\! それで万事OKだ! うれしいな。
黙壺君と同道して再び螻子居へ、そして三人で澄太君へ、とぶ螢、それをとらへるみんなのすがた、私は酔うて、たゞもう愉快であつた。
それから、黙壺君と二人ぎりになり、新天地を飲み歩いた、泥酔してしまつた、黙壺君すみませんでした!
母は押入の隅に嵩張(かさば)っている三尺ほども高さのある地球儀の箱を指差した。――私は、ちょっと胸を突かれた思いがして、かろうじて苦笑いを堪(こら)えた
「私はもうお父さんのことはあきらめたよ。家は私ひとりでやって行くよ」と母は堅く決心したらしくきっぱりと言った。私はたあいもなく胸がいっぱいになった。そうして口惜しさのあまり、
「その方がいいとも、帰らなくったっていいや、……帰るな、帰るなだ」と常規を脱した妙な声で口走ったが、ちょうど『お伽噺』の事を思いだしたところだったので、突然テレ臭くなって慌(あわ)てて母の傍を離れた。
人の世に、死のさびしさ、生のなやみはなくなりません。
僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出来なかつたのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟気違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。