幸徳秋水宛・明治四十年九月十六日
暑かった夏もすぎた。朝夕は涼しすぎるほどになった。そして僕は「少し肥えたようだね」などと看守君にからかわれている。
この頃読書をするのに、はなはだ面白いことがある。本を読む。バクーニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、その他どのアナーキストでも、まず巻頭には天文を述べている。次に動植物を説いている。そして最後に人生社会のことを論じている。やがて読書にあきる。顔をあげて、空をながめる。まず目にはいるものは日月星辰、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、さらに下って向うの監舎の屋根。ちょうど今読んだばかりのところをそのまま実地に復習するようなものです。そして僕は、僕の自然に対する知識のはなはだ薄いのに、毎度毎度恥じ入る。これから大いにこの自然を研究して見ようと思う。
読めば読むほど考えれば考えるほど、どうしても、この自然は論理だ、論理は自然の中に完全に実現せられている。そしてこの論理は、自然の発展たる人生社会の中にも、同じくまた完全に実現せられねばならぬ、などと、今さらながらひどく自然に感服している。ただし僕のここに言う自然は、普通に人の言うミスチックな、パンティスチックな、サブスタンシェルな意味のそれとはまったく違う。兄に対してこの弁解をするのは失礼だから止す。
僕はまた、この自然に対する研究心とともに、人類学にまた、人生の歴史に強く僕の心を引きつけて来た。こんな風に、一方にはそれからそれと泉のごとく、学究心が湧いて来ると同時に、他方には、また、火のごとくにレヴォルトの精神が燃えて来る。僕は、このスタデーとレヴォルトの二つの野心を、それぞれ監獄と社会とで果し得たいものだと希望している。
兄の健康は如何に。『パンの略取』の進行は如何に。僕は出獄したらすぐに多年宿望のクロの『自伝』をやりたいと思っている。その熟読中だ。(…)
千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州
独立ノ檄文
人生已 ムヲ得ザルノ時運ニテ、一族ノ人民、他国ノ政治ヲ離レ、物理天道ノ自然ニ従テ世界中ノ万国ト同列シ、別ニ一国ヲ建ルノ時ニ至テハ、其建国スル所以 ノ原因ヲ述ベ、人心ヲ察シテ之ニ布告セザルヲ得ズ。
天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆 同一轍ニテ、之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即 チ其通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨリ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。人間 ニ政府ヲ立 ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初 テ真ニ権威アルト云フベシ。政府ノ処置、此趣旨ニ戻 ルトキハ、則 チ之ヲ変革シ或ハ之ヲ倒シテ、更ニ此 大趣旨ニ基キ、人ノ安全幸福ヲ保ツベキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟 タズシテ明了ナルベシ。○因循姑息 ノ意ヲ以テ考フレバ、旧来ノ政府ハ一旦軽卒ノ挙動ニテ変ジ難シト思フベシ。然レドモ同一ノ人民ヲ目的ト為シテ強奪ヲ恣 ニシ悪俗ヲ改メシメズンバ、遂 ニハ自主自裁ノ特権ヲ以テ国内ヲ悩マスニ至ルベシ。故ニ斯 ノ如キ政府ヲ廃却シテ後来ノ安全ヲ固クスルハ、人ノ通義ナリ、亦 人ノ職掌ナリ。○方今我諸州正 シク此ノ難ニ罹レルガ故ニ、政府旧来ノ法ヲ変革スルハ諸州一般止ム得ザルノ急務ナリ。英国王ノ行ヒヲ論ズレバ不仁惨酷ノ他ニ記スベキモノナク、専 ラ暴政ヲ以テ我諸州ヲ抑圧セリ。今其 事実ヲ枚挙シ之ヲ世界ニ布告シテ其明論ヲ待ツベシ。
人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩(おうのう)は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。
なんの用意も無しに原稿用紙にむかった。こういうのを本当の随筆というのかも知れない。きょうは、六月十九日である。晴天である。私の生れた日は明治四十二年の六月十九日である。私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんとうの子でないと思い込んでいた事があった。兄弟中で自分ひとりだけが、のけものにされているような気がしていた。容貌がまずかったので、一家のものから何かとかまわれ、それで次第にひがんだのかも知れない。蔵へはいって、いろいろ書きものを調べてみた事があった。何も発見出来なかった。むかしから私の家に出入している人たちに、こっそり聞いて廻ったこともある。その人たちは、大いに笑った。私がこの家で生れた日の事を、ちゃんと皆が知っていたのである。夕暮でした。あの、小間で生れたのでした。蚊帳(かや)の中で生れました。ひどく安産でした。すぐに生れました。鼻の大きいお子でした。色々の事を、はっきりと教えてくれるので、私も私の疑念を放棄せざるを得なかった。なんだか、がっかりした。自分の平凡な身の上が不満であった。
先日、未知の詩人から手紙をもらった。その人も明治四十二年六月十九日の生れの由である。これを縁に、一夜、呑まないか、という手紙であった。私は返事を出した。「僕は、つまらない男であるから、逢えばきっとがっかりなさるでしょう。どうも、こわいのです。明治四十二年六月十九日生れの宿命を、あなたもご存じの事と思います。どうか、あの、小心にめんじて、おゆるし下さい。」割に素直に書けたと思った。
「馬鹿だね、君は。なんて馬鹿なんだろう。そのひとは、宿屋の令嬢なんかじゃないよ。考えてごらん。そのひとは六月一日に、朝から大威張りで散歩して、釣をしたりして遊んでいたようだが、他の日は、遊べないのだ。どこにも姿を見せなかったろう? その筈だ。毎月、一日(ついたち)だけ休みなんだ。わかるかね。」
「そうかあ。カフェの女給か。」
「そうだといいんだけど、どうも、そうでもないようだ。おじいさんが君に、てれていたろう? 泊った事を、てれていたろう?」
「わあっ! そうかあ。なあんだ。」
「どうして旗を持っているのです。」佐野君は話題の転換をこころみた。
「出征したのよ。」
「誰が?」
「わしの甥(おい)ですよ。」じいさんが答えた。「きのう出発しました。わしは、飲みすぎて、ここへ泊ってしまいました。」まぶしそうな表情であった。
「それは、おめでとう。」佐野君は、こだわらずに言った。事変のはじまったばかりの頃は、佐野君は此の祝辞を、なんだか言いにくかった。でも、いまは、こだわりもなく祝辞を言える。だんだん、このように気持が統一されて行くのであろう。いいことだ、と佐野君は思った。
四月一日の朝刊を見ると、「武田麟太郎氏急逝す」という記事が出ていた。
私はどきんとした。狐につままれた気持だった。真っ暗になった気持の中で、たった一筋、
「あッ、凄いデマを飛ばしたな」
という想いが私を救った。
「――今日は四月馬鹿(エープリルフール)じゃないか」
はかなさは燈明の油が煮える
四月廿六日 曇后晴、市街行乞、宿は同前。
雲雀の唄(飼鳥)で眼が覚めた、ほがらかな気分である、しかし行乞したいほどではない、といつて毎日遊んではゐられないので(戸畑、八幡、小倉では行乞しなかつた、今日が五日ぶりで)五時間行乞、行乞相は悪くなかつた、所得も、世間師連中が取沙汰するほど悪くもなかつた。
朝のお汁で山椒の芽を鑑賞した。
花売野菜売の女群が通る、通る。
午後はまつたく春日和だつた。
このあたりを勘六といふ、面白い地名である、そして安宿の多いのには驚ろいた、三年ぶりに歩いてみる、料理屋などの経営難から、木賃宿の看板をぶらさげてゐるのが多い、不景気、不景気、安宿にも客が少いのである、安宿がかたまつたゐるのは、九州では、博多の出来町、久留米の六軒屋、そしてこの勘六だらう。
遠賀川の河床はいゝと思つた、青草の上で、放牧の牛がのそり/\遊んでゐる、――旅人の眼にふさはしい。
洗濯したり、整理したり、裁縫したり、身のまはりをきれいにする、男やもめに蛆がわく、虱がぬくいので、のそ/\這ひだして困りますね!
夜は三杯機嫌で雲心寺の和尚を攻撃した、酒、酒、そして酒、酒よりも和尚はよかつた、席上ルンペン画家の話も忘れない、昆布一罎(マヽ)いたゞいた。
ルンペンとして二人の唄□
あんまりうつくしいチユーリツプ枯れた
彼はその仮綴(かりと)ぢの処女詩集に『夢みつつ』と言ふ名前をつけた。それは巻頭の抒情詩(ぢよじやうし)の名前を詩集の名前に用ひたものだった。