ただ、人の世を貫いて流れる文化の大河のひとしずくとなり、後世との出会いを待つといった大望となると、意識の表にはなかなかのせにくい。
芥川ほどの人にしてはじめて、それもごくごく控えめに語って、どうにか格好が付く。
だが、、書く人の胸の奥の底にはしばしば、そんな奇跡に憧れる冷たい炎が、本人も意識することなく燃えている。
けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
そんな胸底の願いを、すくい上げるものがあるとすれば、なんだろう。
出版。図書館。
芥川死して70年、そこにもう一つ、テキスト・アーカイヴィングという可能性の芽が生まれたことを、私は知っている。
「後世」は、青空文庫で読んだ。
そこに描かれた美しい幻は、青空文庫の願いでもある。
言語による著作物をデジタル化し、共有財産として活用しようとする試みは、すでにたくさんの人たちによって進められています。
私たちは先駆者でもなければ、孤独なランナーでもありません。
先を行く人たちの同意が得られるなら、青空文庫を拡充するために、すでにある成果をどんどん使わせてもらおうと思います。
ただし、ここで新しく青空文庫をはじめることにも、当然のことながら意味はあると考えています。
それは、デジタル化した原稿を、読みやすさを考慮した器におさめた上で、手の届きやすいところに並べておくことです。
電子化された文章は、画面で読むに足る姿形を与えられてはじめて、誰もが共有できる財産になる。皆がためらいなしに読みはじめ、その恵みに浴することができるようになるでしょう。
加えて、各所に散在している電子本という実りに、素早く、確実にたどりつけるよう道しるべを用意することにも、意味があるはずです。 (1997年7月7日)
英語やドイツ語は日本語に較べてたいていの場合に語感が強い。現代の日本人が語感の強い語を喜ぶとすれば、いっそ日本語を捨てて英語やドイツ語ばかり用いたらいいということにまでなってしまいそうである。「試験」などとなまやさしくいうよりは「エクザーメン」といった方が試験の感情当価はよほどよく表現されている。「わが祖国」というよりは「マイン・ファーターランド」といった方が遥(はるか)に荘重に響く。
高橋さんの性格の長所たりし恬淡(てんたん)がスプールロース・フェルローレン!〔あとかたもなく消えてしまった〕 実に意外の感があった
ある日、おかあさんやぎは、こどもたちのたべものをとりに森まで出かけて行くので、七ひきのこどもやぎをよんで、こういいきかせました。
「おまえたちにいっておくがね、かあさんが森へ行ってくるあいだ、気をつけてよくおるすばんしてね、けっしておおかみをうちへ入れてはならないよ。あいつは、おまえたちのこらず、まるのまんま、それこそ皮も毛もあまさずたべてしまうのだよ。あのわるものは、わからせまいとして、ときどき、すがたをかえてやってくるけれど、なあに、声はしゃがれて、があがあごえだし、足はまっ黒だし、すぐと見わけはつくのだからね。」
すると、こどもやぎは、声をそろえて、
「かあさん、だいじょうぶ、あたいたち、よく気をつけて、おるすばんしますから、心配しないで行っておいでなさい。」と、いいました。
そこで、おかあさんやぎは、メエ、メエといって、安心して出かけて行きました。
Wer nie sein Brot mit Tränen ass,
Wer nie die kummervollen Nächte
Auf seinem Bette weinend sass,
Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Mächte!
(涙ながらにパンを味わったことのない者、
悩みにみちた夜な夜なを
ベッドに坐って泣きあかしたことのない者は、
おんみらを知らない、おんみら天の力よ!)
(ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』第二巻一三章で、老人の竪琴弾きが口ずさむ歌。高橋義孝・近藤圭一訳『ゲーテ全集』 第五巻)
二、三の友だちは私にこういった、「君は不幸に逢わなければよくなれない。君は大きな打撃にぶっつかる必要がある。」私はいまそれらの言葉をもう一度はっきりと思い起して、その意味を自分で適当に解釈しながらしみじみと味ってみる必要がある。それは何より先に謙遜なる心の回復を意味するのでなければならない。しかるに謙虚なる心は小さい自我を通す喜びによってよりもそれを粉砕する悲しみによって得られるのである。険しい道に由(よ)り狭い門をくぐって私たちは天国に入るのである。この世の智恵を滅ぼすとき神の智恵は生れる。まことに天国は心の貧しき人のものである。私はいまさらに新なる感興をもってゲーテの有名なる詩の一句を誦せざるを得ない。
井深君は、自分のひきずっているステッキが甃石にカラカラ、カラカラと鳴る音ばかりではもの足りない気がした。そこで、あらためて前後左右を見返して、人影のないのを確めると、さて――(何しろ春の黄昏で、月がさしていたことだし……)と心の裡に言いわけをして、その少女が好んで唄っている「汝が像」と云うハイネの詩にシューバアトが曲をつけた歌を口笛で吹いてみた。
Ich stand in dunkeln Traummen[#aにウムラウト] und
starrt, ihr Bildness an,
Und das gelibte Antlitz
hoimlich zu leben begann.
……………………………………
…………………………
ところが、一章唄い切らない中に井深君はやめた。
ペエテルはペピイの体に異状の無いのを見届けた上、手の甲に載せた腮をずらせて、半分右へ向く。丁度クリストフは手鼻をかんだ処で、そのとばしりが地の透くやうになつた上衣(うはぎ)に掛かつてゐるのを、丁寧にゴチツク形の指で弾いてゐる。
此男は胃に力が無くなつて、「時間」も消化することが出来にくいので、その一分一分を精一ぱい熟(よ)く咬み砕いてゐるかとも思はれる。
ペエテルは杖に力を入れて起ち上がつて、片手を十になる小娘の明るい色をした髪の上にそつと置く。小娘は此時極まつて、自分の髪の中から枯葉の引つ掛かつたやうな手を摘み出して、それにキスをする
併し貧院に戻り着くと、ペピイが先に部屋に這入つて、偶然の様にコツプに水を入れて窓の縁に置く。そして一番暗い隅に腰を掛けて、クリストフが拾つて来た花をそれに插すのを見てゐる。
実験としての文学と科学
たとえば勢力不滅の方則が設定されるまでに、この問題に関して行なわれた実験的研究の数はおびただしいものであろう。たとえば大砲の砲腔(ほうこう)をくり抜くときに熱を生ずることから熱と器械的のエネルギーとの関係が疑われてから以来、初めはフラスコの水を根気よく振っていると少し温(あたた)まるといったような実験から、進んで熱の器械的当量が数量的に設定されるまで、それからまた同じように電気も、光熱の輻射(ふくしゃ)も化合の熱も、電子や陽子やあらゆるものの勢力が同じ一つの単位で測られるようになるまでに行なわれて来た実験の種類と数とは実に莫大(ばくだい)なものである。
イギリスの大学の試験では牛(オックス)でさへ酒を呑(の)ませると目方が増すと云(い)ひます。又これは実に人間エネルギーの根元です。酒は圧縮せる液体のパンと云ふのは実に名言です。堀部安兵衛が高田の馬場で三十人の仇討(あだう)ちさへ出来たのも実に酒の為にエネルギーが沢山あったからです。みなさん、国家のため世界のため大に酒を呑んで下さい。
スタニスラウスは徐(しづ)かに手を振つた。人に邪魔をせられずに落ち着いてゐたいと思つたからである。けふかあすかは知らぬが、自分はもうこの椅子から立ち上がらずにしまふのが分かつてゐる。併し最後の詞は、なんと云ふ詞にしようか、それはまだ極めてゐない。
「あなた本当にわたくしを愛して入らつしやつて。」かう云つて娘は返事を待つてゐる。
「なんともかとも言ひやうのない程愛してゐます。」かう云つて少年は、何か言ひさうにしてゐる娘の唇にキスをした。