今朝、私は車の中から、赤信号が青になるのを待っていた。曇った空の下、本屋の店主は、店先を掃き、彼に年配の女性が挨拶をしている。
目の前の横断歩道を、クラブ活動にでかける坊主頭の中学生が、前かがみなって自転車で渡る。女子高校生たちがスカートを気にして、しゃべるしゃべる。
その風景が、途切れること、日常が切れてしまうこと。それが死の恐怖だと文中で登場人物に語らせているある作家の作品があった。その恐怖を鈍らせてしまうものは、『生きている苦痛なのだ』と言ったのは・・・
自ら死を選ぶことが『一生に一度の我儘』と言ったのは・・・
今日は河童忌。それにちなんで、
芥川の「遺書」が公開された。
僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出来なかつたのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟気違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。
この
作品は何度読んでも悲しい。

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