夜が明けたら、久しぶりに大阪へ行く。大阪と言ったら、青空文庫的には何を連想するのかというと…
あー、そこで喧嘩しないで。
大阪のあちこちから文学者が顔を出して喧嘩し始める妄想が今頭の中をワンワンさせているがそれは置いておこう。とうていすべてを見学しきれる訳ではない。先日大阪のガイドブックを買って来て読んでいたら本の中にいた与謝野晶子がびしっとこちらを見て「私を無視するおつもりか」と言って来た。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…
ところで今回の大阪行きまでに、これだけは読むべきだった作品があった。織田作之助「
夫婦善哉」。なぜなら、ぜんざいを食べに行くコースを用意しているからだ。実に強引な理由だ。「数の多さと豪華と感じる感覚は比例するのか?」というのが作品のテーマかと思ったら全然違うらしい。(愛読者の皆様、ごめん)
いや、それでもよろしい、二椀のぜんざいが一つのお盆の上にある様を想像するだけで頬がひとりでにゆるんでしまうのだ。そのぜんざいを愛する人たちが登場するなら読んでしまうぞ。でも多分帰宅してからになるだろう。いや、ちょっと冒頭を覗いてみようか、ちょっとだけ。
年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋(しょうゆや)、油屋、八百屋(やおや)、鰯屋(いわしや)、乾物屋(かんぶつや)、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促(さいそく)だった。路地の入り口で牛蒡(ごぼう)、蓮根(れんこん)、芋(いも)、三ツ葉、蒟蒻(こんにゃく)、紅生姜(べにしょうが)、鯣(するめ)、鰯など一銭天婦羅(てんぷら)を揚(あ)げて商っている種吉(たねきち)は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉(うどんこ)をこねる真似(まね)した。近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡(ごんぼ)揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっしゃ、今揚げたアるぜ」というものの擂鉢(すりばち)の底をごしごしやるだけで、水洟(みずばな)の落ちたのも気付かなかった。
種吉では話にならぬから素通りして路地の奥(おく)へ行き種吉の女房(にょうぼう)に掛(か)け合うと、女房のお辰(たつ)は種吉とは大分違(ちが)って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振(みぶ)りが余って腰(こし)掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」と血相かえるのだった。「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
…。
今が年の終わりの月なせいか、井原西鶴「世間胸算用」をも思い出させるような書き出し。しかも、この女房、絶対に旦那を尻に敷いてる。うう、先が楽しみだわ。
それでも、夜が明ける前に一寝入りしなければ。さっきから妄想が止まらない。雨が降ろうが大雪が降ろうが、ぜんざいのためならどこまでも…と書きかねない筆者は、目下灼熱地獄と闘っている。妄想度が普段以上なのはそのせいだろうか。いや、いつもの事だろう…
あ、
作業中リストにあったのか…

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