近所の玄関先に一列に並んだラッパ水仙が、毎朝私と愛犬に挨拶をする。水仙は、色々な作家の目に留まった花だ。その中で、面白いと思ったのは、太宰の水仙である。
「水仙」 太宰 治
「忠直卿行状記」という小説を読んだのは、僕が十三か、四のときの事で、それっきり再読の機会を得なかったが、あの一篇の筋書だけは、二十年後のいまもなお、忘れずに記憶している。奇妙にかなしい物語であった。
・・・で書き出された奇妙にかなしい物語。その奇妙にかなしい物語の主は、忠直ではない。草田夫人である。お金持ちの草田夫人は、絵画を習い始めたところから話は始まる。夫人は、段々絵にのめりこんでいく。絵にのめりこんでいくのか、ほめことばにのめりこんでいくのか・・とにかく自分を見失ってしまう。そんな夫人にただ一人”僕”だけはきつい言葉を吐く。その言葉に夫人は、傷つきながらも、絵で身を立てるべく、家出をするのだが・・・行き詰った彼女がとった行為と”僕”の不安・・・
老画伯は、奥へ行って、やがてにこにこ笑いながら一枚の水彩を持って出て来て、
「よかった、よかった。娘が秘蔵していたので助かりました。いま残っているのは、おそらく此の水彩いちまいだけでしょう。私は、もう、一万円でも手放しませんよ。」
「見せて下さい。」
水仙の絵である。バケツに投げ入れられた二十本程の水仙の絵である。手にとってちらと見てビリビリと引き裂いた。
「なにをなさる!」老画伯は驚愕(きょうがく)した。
「つまらない絵じゃありませんか。あなた達は、お金持の奥さんに、おべっかを言っていただけなんだ。そうして奥さんの一生を台無しにしたのです。あの人をこっぴどくやっつけた男というのは僕です。」
「そんなに、つまらない絵でもないでしょう。」老画伯は、急に自信を失った様子で、「私には、いまの新しい人たちの画は、よくわかりませんけど。」
僕はその絵を、さらにこまかに引き裂いて、ストーヴにくべた。僕には、絵がわかるつもりだ。草田氏にさえ、教える事が出来るくらいに、わかるつもりだ。水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。なぜそれを僕が引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。
もし”僕”が、いい人ではなかったら、きつい言葉を吐かなかっただろうし、絵も破りもしなかったらだろう。夫人の周りの青年たちと同じように、夫人に媚びるだろうし、絵を老画家のように秘蔵していたに違いない。そして高く売れることを期待するだろう。・・・という発想でいいのかと最初思った、しかしどうもそうではないらしい。
静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した。僕の不安は増大する一方である。なんだか天才の絵のようだ。おのずから忠直卿の物語など思い出され、或(あ)る夜ふと、忠直卿も事実素晴らしい剣術の達人だったのではあるまいかと、奇妙な疑念にさえとらわれて、このごろは夜も眠られぬくらいに不安である。二十世紀にも、芸術の天才が生きているのかも知れぬ。
夫人は自殺をするー”僕”の不安は増大する。夫人は天才だったかもしれないのだからという奇妙な疑念にとらわれる。なぜそれが奇妙なのか・・”僕”が真実を知らないからであろう。
読者は気づく、”僕”が彼女の絵を見たのは、たった一回きりの水仙の絵だけであるということを。一度も絵をみないで、”僕”は、「たくさんです。たいていわかっています。」と答えたのだから・・そう答えさせたものは何なのか、そこがこの話ポイントなのだろうと私は思う。
水仙は英語で"Narcissus"。 ギリシア神話にでてくるナルシスの化身だという。夫人の絵は、その神話と無縁ではないように思えるのだが・・

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