泉鏡花が泉鏡太郎名義で発表した
「銭湯」という小エッセイがある。銭湯でのどたばた騒ぎをさらりと描写した、何ということもない一文だが、それでいて短い中に小さなドラマがあって、読ませる。文才とはこういうものが書けることを言うのだろうなと、文才のないこちらは少し嫉妬する。
揚場の奧方は、最う小兒の方は安心なり。待くたびれた、と云ふ風で、例の襟を引張りながら、白いのを又出して、と姿見を見た目を外らして、傍に貼つた、本郷座の辻番附。ほとゝぎすの繪比羅を見ながら、熟と見惚て何某處の御贔屓を、うつかり指の尖で一寸つゝく。
「さあ、飛込め、奴。」
で、髯旦の、どぶりと徳利を拔いて出るのを待兼ねた、右の職人、大跨にひよい、と入ると、
「わつ、」と叫んで跳ねて出た。
「堪らねえ、こりや大變、日南水だ。行水盥へ鰌が湧かうと云ふんだ、後生してくんねえ、番頭さん。」
これが書かれた明治末、鏡花は牛込神楽坂に住んでいた。故郷である金沢へはあまり帰ることがなかったようだ。浅草など下町へもよく出没したらしく、鏡花は江戸の雰囲気が残る東京のそこかしこが好きだったと見える。
「錢湯」で描かれる銭湯も、まさに江戸文化のにおい。
しかし、鏡花自身は、決して銭湯に入ることはなかっただろうと思う。というのも、鏡花は極度の潔癖症で、食事は家で夫人の作るものしか口にしなかったと言われる。酒は、ぐらぐらと煮立つまで燗をする。これでは、酒の旨味が飛んでしまうだろうに。
ずっと後年だが、鏡花を囲んで酒と食を楽しむ「九九九会(くうくうくうかい)」なる催しが里見※[「弓+享」](とん)らを発起人として始まり、毎月1回、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが参加して開かれた。そのうちの1回だろう、浅草の鮨屋「美家古寿司」で開かれたときのことが、『内田栄一/江戸前の鮨』(晶文社)という本に載っている。
「ところが、あの方はどうも生ま物が食べられなかったんですね。あたしの家の二階座敷に来て、『一杯飲むんで鯛を煮てくんないか』と言ったもんで、下の調理場にいたおやじが怒鳴っちゃった。
『この野郎! 煮物が食いたいんだったら料理屋へ行け。なんだ馬鹿野郎!』
そしたら、女中さんが、
『やめてくださいよ。聞こえるじゃありませんか』
『なに言いやがる、馬鹿野郎、こっちは聞こえるようにやってんだよ!』」
著者の内田栄一さんは、浅草美家古寿司の4代目。上記引用文中に出てくる「おやじ」はその父親、3代目だ。そして、「あの方」は泉鏡花。潔癖症の鏡花が生ものを食べるはずはなく、鮨屋には不向きと思うのだが、どういう経緯で会場に選ばれたのだろう。
銭湯も鮨屋も、江戸文化のシンボルだ。だが、鏡花はその中には飛び込めない。こわごわ近づいていったのかもしれないが、何を考えていたのか、本当のところを知りたくなる。

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