今朝ゴミ捨てにでたとき、近所の年配の方としばし立ち話。彼女がぼそりと言うには、「今年の春はいつかしら?」
なんと答えていいのか迷っていると、「ほら、ごらんなさい、いつもだったらチューリップがもう少し伸びているわ」と花壇を指差す。。
確かに、彼女の家の花壇には、十センチほどの丸まった葉が等間隔に十個、それが二列並んでいる。彼女が続けていうには、「今年のチューリップは夏に咲くんじゃない?」
「はあ・・夏にチューリップですか」と私が言うと、
「そうよ」と笑いながら家に入って行った。
私は心配になって、母の植えた前庭のチューリップをみたら、やはり十センチほどの丸まった葉が三つほど。彼女の花壇のものよりさらに一団と小ぶりのように思える。向こうが夏ならこっちはどうなるのだろうと不安を掻き立てられたが、はたと思った。前年の今頃はどうだっただろう。もっと伸びていたような気もするが、これだけだったような気もする。植えっぱなしで、何もしない、色だけは赤だとわかるという体たらくの主に、毎年忘れることなく咲いてくれているのだ。
十年以上も前、母が球根を買ってきてこまめに世話をしていた。世話ができなくなった母の世話で私は精一杯だった。それでもディサービスの朝夕に母はチューリップを眺めては「咲いたね」と喜び、時には車椅子を止めてもらって花びらを動く方の手で撫ぜていた。
数年前、施設に入った母に 私は、「咲いたよ」と毎年教えている。それを聞いて母は、遠い目をしてからゆっくりと頷くのが常だ。それは、ゴールデンウィーク開けのころのような気がする。それに、ここ数日桜の便りを耳にするということは、そのうちチューリップも咲く。「そうだ、咲く」と灰色をすっかり忘れてしまった青い空を見上げる。仙台出身の尾形亀助の描いた春を思い出しながら。
「色ガラスの街」 尾形 亀之助
春
(春になつて私は心よくなまけてゐる)
私は自分を愛してゐる
かぎりなく愛してゐる
このよく晴れた
春――
私は空ほどに大きく眼を開いてみたい
そして
書斎は私の爪ほどの大きさもなく
掌に春をのせて
驢馬に乗つて街へ出かけて行きたい

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