今朝は寒さで目覚めて本当に夏は去ったのかと考えながら仕事に出るが、昼間気づけば途中でオデコに汗が噴き出してきてああやはり夏はしつこくまだいると気づく。思えば今年の夏の粘り強さよ、少しは見習わなければといや見習えと幻聴が聞こえる頃には既に頭がくらくらしはじめるのがこの前の日課だった。でもさすがに夕方になれば違う。西日で一杯の給湯室で一人、麦茶の残りを飲みながらそろそろ夕方に皆で飲む珈琲も温かいのでいいかなと冷静に考え始める。
百三年前の今日、東京のある一室で男が本を読んでいた。時々窓から空を眺めながら。そして手紙を書いた。
幸徳秋水宛・明治四十年九月十六日
暑かった夏もすぎた。朝夕は涼しすぎるほどになった。そして僕は「少し肥えたようだね」などと看守君にからかわれている。
この頃読書をするのに、はなはだ面白いことがある。本を読む。バクーニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、その他どのアナーキストでも、まず巻頭には天文を述べている。次に動植物を説いている。そして最後に人生社会のことを論じている。やがて読書にあきる。顔をあげて、空をながめる。まず目にはいるものは日月星辰、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、さらに下って向うの監舎の屋根。ちょうど今読んだばかりのところをそのまま実地に復習するようなものです。そして僕は、僕の自然に対する知識のはなはだ薄いのに、毎度毎度恥じ入る。これから大いにこの自然を研究して見ようと思う。
読めば読むほど考えれば考えるほど、どうしても、この自然は論理だ、論理は自然の中に完全に実現せられている。そしてこの論理は、自然の発展たる人生社会の中にも、同じくまた完全に実現せられねばならぬ、などと、今さらながらひどく自然に感服している。ただし僕のここに言う自然は、普通に人の言うミスチックな、パンティスチックな、サブスタンシェルな意味のそれとはまったく違う。兄に対してこの弁解をするのは失礼だから止す。
僕はまた、この自然に対する研究心とともに、人類学にまた、人生の歴史に強く僕の心を引きつけて来た。こんな風に、一方にはそれからそれと泉のごとく、学究心が湧いて来ると同時に、他方には、また、火のごとくにレヴォルトの精神が燃えて来る。僕は、このスタデーとレヴォルトの二つの野心を、それぞれ監獄と社会とで果し得たいものだと希望している。
兄の健康は如何に。『パンの略取』の進行は如何に。僕は出獄したらすぐに多年宿望のクロの『自伝』をやりたいと思っている。その熟読中だ。(…)
(大杉栄「
獄中消息」)
人間の社会を論じるのにまず天の事から述べるというくだりと、本に飽きてまず空を見上げるという仕草が結びつくところがおもしろい。話はここで止まらず、今読んだ本から起きた思考が走り始めるのを感じながらもどうやって思考の舵を取って行くかの模索もしている。
学びの場から遠くなったとしても、涼風の中でこの下りを読むとついうっかりと「勉強しよう」と思いたくなりませんか。そしてしぼんでいた筈の「レヴォルト」も。

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