今朝、パソコンの前に座って、ため息をひとつ。額から流れ出る汗をタオルでぬぐいながら、パソコンを立ち上げるかと、いやまてクーラーのスイッチが先だ。
冷えた空気が、暑い空気を上から溶かしていくのを楽しみながら青空文庫をクリックする。本日公開は何かな。あら、
津村信夫「雪」、この猛暑の中、気の利いた選択。私は、蝉の大合唱を聴きながら雪の話を読むことにした。
雪国に住むものとして、雪道で転ぶ話などは、共感できるが、私の心を捉えたのはこの一節だ。
しかしながら、雪といへば、こんな便利なこともありました。
私が長野の町の小さな病院で、熱のある患者の看病をしてゐる時でした。東京へんだと熱のある場合、病人の頭や胴をひやすには、きまつて、氷をつかひますね、ところが、信州では氷の袋はつかひますが、中に入れるのは、氷ではなくて、雪なのです。あの堅いかたい雪なのです。
一々氷屋をよばなくとも、冬であれば病院の庭にでも、どこの空地にでも、雪のないことは珍らしいからです。
小さな病院の庭が、この雪を掘る人々で、にぎはふ光景を、私も日にいくどか眺めました。
詩人津村の目に映るのは、雪を掘る人の真っ赤な頬とかじかんだ手。そして彼らの祈り。
連日暗い事ばかりがテレビから流れ、新聞を開くことも嫌になる。私は、この津村の短文を一服の清涼とする。そしてクーラーの風を受けて、この話を読み終わったことに、妙な不安定を感じた私は、ブラインドを上げる。今日も雲ひとつない空。連日の猛暑に何かがおかしいと人はいう、同意しながらも、津村の言葉を今一度かみ締めてみる。
自然の中に暮してゐる人々は、自然のお蔭で、色々の楽しみを持つことも出来ますが、又はげしい自然と、一と冬の間、こんなふうに戦はねばならないのです。

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