高瀬舟 森 鴎外
高瀬舟
たかせぶねは京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。
言葉が、会場の隅まで広がる。スポットライトを浴びたFさんの低く澄んだ声は、「人の命」という大命題の櫓をこぎながら高瀬川を下っていく。
八年ほどにもなろうか、秋の夜長の朗読会に私は主宰者のFさんから誘われた。それから毎年秋になると朗読会があり、作を促されて、そこで何度か読んでもらったこともある。
そのFさんが今年の冬に亡くなっていた。それをまったく知らなかった。先日共通の知り合いと繁華街でばったり会って知った。Fさんからは、毎年年賀状を必ずいただくのだが、それがなかった。それに気づいて、連絡しなければと思っていたが、多忙にまぎれてしまった。お見舞いにいくことも何もできなかった。家族の方が私に電話されてもほとんど留守だったから無駄であっただろう。今となってはすべていいわけに過ぎない。
大きな後悔のうねりの中にいる私が忘れられないシーンがある。その朗読会よりも二年ほど前の話。あるパーティで私がぽつんとしていると、さっと横の席に彼は腰おろした。知己の間、遠慮は要らないと、その年に彼を襲った大病を話題にすると、
「私も年ですからね。実はね。ほかの人に内緒ですよ。私の寿命は、医者があと5年だというんですよ」とワインのグラスを片手に私に語った。
「5年ね、5年もあるじゃないですか。このパーティの帰りに交通事故で死ぬかもしれないです。私」と言うと、
Fさんは、ぷっと吹き出し、
「そうだねえ・・じゃあ私の5年に乾杯ですなあ」とお互いグラスを合わせた。
彼の寿命は、医師の言う五年から倍の十年を越えたことは確かである。
さて、高瀬舟は、進む
庄兵衛は少し間の悪いのをこらえて言った。「いろいろの事を聞くようだが、お前が今度島へやられるのは、人をあやめたからだという事だ。おれについでにそのわけを話して聞せてくれぬか。」
庄兵衛は、喜助に尋ねる。たずねられた喜助は舟に揺られながら話し始める。弟を殺めた一部始終を。
Fさんの声は、量も質も衰えることがなく進む。そして
次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。
と言葉が結ばれると、Fさんは、ゆっくりと立ち上がって微笑んだ。一つだけの拍手は瞬く間に大きなうねりに吸い込まれる。再度彼は頭を下げた。そして踵を返した。
緞帳のないステージだったのだが、見えないカーテンは確かに下りた。そして私たちは、カーテンコールを待っていた。

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